虚の世界は、同じ鏡でも、言葉通りの鏡。本当の完璧な鏡って言えない。
言葉通りの色んな種類の鏡が生まれる。だから相対に分かれる両極をつかんだら、波打つ鏡になる。
言葉が歪んだら、凹面鏡か、凸面鏡か、歪む鏡。言葉通りに色んな鏡が生まれる。
そこに色んなすがたを映す。全部言葉通りに虚の世界が映ってくる。

でもこれ全部、神さまの側から見たらどう見える?歪んだ凸面鏡に、自分のすがたを映して、
面白く見えたらどう?笑えない?本当の自分に気付いていたらそう。笑うだけ。面白いなって。
自分は完璧って自分がわかっていたら、鏡に歪んで映ってもいいの。ああ面白いって言うだけ。
自分が歪んでいると思ったら、歪んだものを見せられたら嫌。余裕がなくなる、笑えない。
だから常に、真の神さまが真の自分。そこへ言葉を定めないと。そして、真の神さまだけ、
真の神さまだけって祈り続けること。本当の意味で、ありがとうございますを唱えて、祈り続ける、
与え続ける。常に常に、大きく大きく与え続けること。

そしたら無条件の幸せが湧き上がる。虚の世界をどう眺めても、プラスに見える、楽しめる。
マイナスには絶対見えない。地獄絵図も別にマイナスではなく、全部プラスに見えてくる。
だから神さまが救いに立つっていうのは、心境を、神さまの側に引き戻すのが、救いに立つっていう意味。
形を変えることではない。心境を神さまの立場に引き戻すこと。
自由自在な本心の自分、大きい自分に引き戻すのが救いに立つと言う意味。

元の自由自在心に引き上げてくれる。地獄絵図を極楽に変えることではない。
そんなことはどちらでもいいこと。形ではない。心を、心境を、神さまと一つにしてもらうこと。
それも言葉選びが一番大事。言葉通りの心境になるから。それで真のプラスの言葉をしっかりと選んで、
それを繰り返す自分になれたらいい。言葉通りの自分に必ずなる。

だから鏡も自分を振り返るためには、必要になる。色んな種類の鏡があっていい。
ただ鏡にとらわれて、今の自分を掴んでしまったらダメ。本当の自分を思い出すために必要なの。
本当の自分に戻るために、必要なだけ。だから鏡から輝きの方に、切り替えていかないとダメ。
今の自分を映すのではダメ、過去の自分を映すのではダメ。新たな輝きの自分、新たな自分を映さないと
ダメなの。

だから常に一瞬一瞬新たに、新たな自分をしっかりと生きること。微塵も過去を掴んだら損をする。
絶対、過去のことは必要ないの。神さまの与えてくる、一大循環の相象は、常に新たに新たに
無限のスピードで、それも全体が全部違う。どの部分を取っても違う。元の絶対の中心の一番大きいものが、
全部違うの。それが無限にあったら、無限に全部が違う。元が全部違うものばっかり。

末端の全てもそれが縮図になってくるから、元が大きく違うから、末端まで全部違う。
一大循環の相象は、組み合わせ。無限のもの、異なる無限のものの組み合わせ。それが出てくる。
螺旋状に組み合わさって、本当の万華鏡、億華鏡か無限華鏡か。本当は無限。万ではない。
無限の鏡が、循環して回転して映し出してくる、それを見せてもらうの。
だから過去を掴むことが、いかに愚かか。一瞬でも掴んだらダメなの。常に、新たに新たに。
神さまの愛のプレゼントを感じ取ろうとすることが、神さまへの本当の恩返し。

(平成26年3月22日のお話②)