ありがとうございますを与える力が、どれほどのものか。この一分間の、真心を込めた、
命懸けのお祈りだったら、一分間で奇蹟が一杯起こる。昔から色んな信仰をしている人、
例えば、観音様を信じていたら、南無観世音菩薩を一心不乱に一分間唱えたら、全ての災いから免れるという。

でもありがとうございますは、その程度ではない。もっと大きい力が、ばっと降りる。
真の神さまの力は、虚の世界の神仏の力とは比較にならない。無限倍大きい。
だから必要だったら、さっと奇蹟を起こす。

古い家に住んでいて、雨漏りがいつもしていて、もう、その音が耳について大変っていう人が、
一分間のお祈りを心がけたという。一分間、一生懸命に祈ったら、雨が落ちる音が消えた。
なぜ?雨漏りが止まった。あちこちで雨漏りがするのを、祈って祈っていると、全部止まっていく。
そのうちに、雨漏りがしたら、祈ったら止まるという前に雨漏りが無くなってくる。
その一分間のお祈りを一生懸命したら、そういう風に変わる。だから雨漏りがするのでも、
色んな原因がある。どこにも穴が開いてないのに、雨漏りする時もある。穴が開いていても、
全然雨漏りがない時もある。それも本当は言葉通り。自由自在なの。

ありがとうございますを加えたら、そこは神さまの世界になる。どれだけ今マイナスって言っても、違う。
一つの、一言の言葉選び。過去はこうだった、これは関係ない。今、現実に見ているのは、みんな過去。
過去の残像、足跡なの。それを今見ているわけ。だから雨漏りがしていると見ても、
それを一心不乱に祈り言葉を唱えて祈る時は、もう過去を相手にしていない。
一心不乱に、ありがとうございますと唱えられたら、今現実化するものを、
無限通りの中から一つ選んだことになる。それが、ありがとうございますの言葉だったら、
神さまの言葉が現実化する。その時は、雨漏りが消えて無い。雨漏りというような程度のものだけではなく、
全ての問題が全部そう。

大地震が起こった。大地震が起こったという言葉を使ったら、大地震が続く。
でも一心不乱に祈ってご覧。大地震が今起こっているその時、一心不乱に祈ったら、
その人の前には、大地震は消えて無い。本当に神さまの腕に抱かれて、揺すられている感覚で終わる。
一切マイナスは起こらない。今の一分間で変わる。戦争に行った人でも、信仰心のある人は、
いつも祈っていた。そうすると、弾丸がばんばん飛んでくる。砲弾がどんどん来る、
その中で、やっぱり一発も当らないように守ってもらえる。たくさん飛んで来るから、って
そういう捉え方していたら、マイナスの言葉を選んでいる。自分がマイナスの言葉でマイナスを現実化して
受けている。

ところが、神さまの世界と、本当に断定するぐらい、祈って祈ったら、そこが神さまの世界になったら、
マイナスは全部消えて無い。だからもう全てのマイナスが、全部消えるのが当たり前なの。
天気でも、雨だって言ったら雨になる。でもありがとうございますを唱えて、必要な仕事をしていたら、
雨がいつもやむのは当たり前。必要なことをする時は、神さまの世界が具体化するから、雨が止むくらい、
当たり前の話。やまなかったら、祈っていないか、必要なことをしていないということ。

だから言葉の力って、たかが言葉ではない。自分の選んだ言葉通りに、全部なっている。
例えば病気の人、治らない人は、全部、今の言葉が病気、病気で、連続している。
過去のすがたばかりを言葉にし続けている。だから言葉通り。一瞬も完全健康、無限健康って言っていない。
本当は、一分間、ありがとうございます、真の神さまだけ、完璧って、言い続けられたら、
その一分間で、現実化するものは完璧なすがたになる。

霊媒体質の、神がかりする人を見たらわかる。霊媒体質の人に神さまが降りる。
ちょっと高級な神さまが神がかりしたら、その神さまが降りている時は、完璧。病気も消えて無い。
瞬間に、変わる。その人の顔付、骨相まで変わる。相の良いすがたに変化する。
ところがもっと低いものが代わりに降りたら、例えば、あの世の病気で苦しんでいる人のすがたで
降りたとしたら、健康な人でも、即病気のすがたをとる。全部変わるの。骨相まで全部変わる。
波の違いで全部一瞬になる。これが一人ひとり自分の身体を管理する時でもそう。
自分の言葉でしっかり管理するのだったら、プラスの言葉だけ使ったら、自分の身体はプラス。
人のせいにはできない。自分が本当にプラスの言葉だけを、新たに新たに使い続けたら、絶対大丈夫。

一言マイナスの言葉を使ったら、そのマイナスの一言が今働くだけではない。
何回も繰り返したマイナスの言葉は、優先順位が高くなる。過去にも選んで、今も選んでいる。
これが最高の優先順位になる。ちょっとプラスを加えただけで、優先順位があとになる。
だから優先順位を一番にしようと思ったら、新しいプラスの言葉を一心不乱に唱え続けたらいい。
一分間でいい。一心不乱にそれだけを唱えたら、一番の優先順位になったら、過去のものは出てこない。
だからそのくらいに今、選んで使う言葉をしっかり選ばないとダメ。

そしたら、どの言葉を選んだらいいか。本当は、ありがとうございますの一言だけで、余計な言葉はいらない。
例えば「求める」心境の時、ありがとうございますを唱えるのは、神さまを呼んでいる。
助けを求めている。求める心の人は、一心不乱に、ありがとうございますって神さまを呼べばいい。
そしたら、全部願いを叶えてくれる。求める心でも、神さまが助けに降りたら、全部願いを叶えてくれる。
その願いは小さい、つまらないものだけど、片っ端から全部叶えてくれる。
病気でも治して欲しかったら、一瞬にぱっと消えて無くなっている。どんな願いでも叶えてくれる。

また「受ける心」になったら、ありがとうございますを唱えることは、神さまの本当の助けを受け取ろうとする心。
そしたら必ず大きいマイナスを、万分の一・億分の一に変えてくれる。
どんなマイナスが出ても、万分の一以下になっている。心境がもうちょっと上がったら、
縁覚ぐらいに上がったら、大きいマイナスを億分の一に変えてくれた、無限分の一に変えてくれたと、
大きい受け直しが出来るだけの助けを受けている。これもありがとうございます一言でそうなる。

また、菩薩になったら、「与える」心になったら、神さまの助けを一杯受けて、プラスの自分になっている。
神さまの助けは、神さまから受けたものを、本当に与え尽そう、全てを与え尽して空っぽになろうという、
こういう気持ちに、必ずしてくれる。本当に菩薩行を出来るように、すぐに変えてくれる。
ありがとうございますを一心不乱に唱えたらいい。与えるという心境になってから動くのではダメ。
神さまをまず呼んで、神さまの愛を受けて、更に神さまから受けたものを与えようという気持ちになって、
神さまをしっかりと受け入れないとダメ。

だからありがとうございますを、菩薩になっても、神さまのものを与え続けるという気持ちで与えたらいい。
まだ、真の神さまそのものを与えるというのは、「支える」、「支え合う」心まで行かないとダメだけど、
菩薩は、神さまから受け取ったいいものは全部、神さまからのプレゼント、神さまそのものという位の気持ちで、
与えようという循環をさせたら済むこと。それも何を与えるかというと、現実の形あるものではない。
ありがとうございますの一言。ありがとうございますの言葉を与え続けたら、全部与えたことになるの。
そのうちに、本心の自分に戻って、支える、支え合う、この与え方に必ず変化してくる。

(平成26年3月8日のお話②)