昔から神道で、禊祓いというのがある。禊祓い。身を削いで、捨てるの。
そのぐらいに、捨てるということが厳しいっていう意味。本当に身を削いで、捨てるぐらいの厳しさが必要なの。
だから色んなものを背負っていると、重荷で潰される。

山登りするのをよく考えたらわかるけど、力のある人でも、一杯背負ったら途中でダウンする。
必要なだけに絞り切って、必要なだけで登らないとダメ。上へ行くほど、やっぱりサポートが沢山いる。
高い山に登るのはみんなそう。サポートが一杯いて、本当に自分が必要なものだけを背負って登らないと、
頂上は極められない。

悟りの世界が同じ。大勢の人にサポートしてもらって、支えてもらって、身軽になって、
必要なだけを背負って、山に登るの。で、頂上を極める。いかに無駄なものを捨てていくか。
本当に必要なだけに絞り切るか。これがもう常に大事な問題。
これも悟りを開くために、本当に必要なものは何か、ここまで絞り込まないと。

自分の生きていく上で必要なもの、なんて言っていたらダメ。肉体が生きていく上で必要なものは、
本心の自分にとっては必要ない。肉体の自分、道具の自分に必要かもしれないけど、
本心の本当の自分にとって、悟りを開くために、肉体がもし邪魔するのだったら、消えてもいいくらいなの。
もし邪魔するんだったら、肉体を殺しても、本心の悟りを願う方が必要な事。
このぐらいの厳しさが必要になる。

だから一旦全部、捨てる覚悟を決めて、必要なものを残す。常にそう。この井戸の中を総ざらいするとき、
井戸の中にちょっと金貨が落ちている。ダイヤモンドが入っているから、それを選別して外に出そうとしても無理。
選ぶと言っても、本当は選べないの。かき混ぜるだけ。探し回って捨てることは出来ない。
どんな宝物が入ってようが、一旦捨てないとダメ。総ざらいっていうのはみんなそう。
井戸の中身を全部抜いてしまわないとダメ。

だから今の自分にとって必要なものと、本心の自分にとって必要なものは違う。
今の自分は金貨が落ちていたら、金貨が必要。それを自分の大事な宝物って言うんだけど、
今度本心側に立ったら、今度湧き上がる新しいいのちの水が、必要なもの。
同じ必要って言ってもガラッと変わってしまう。自分が変わることで必要なものも変化する。

だから常に新たな自分に本当に必要なものを追い求める。本当の神さまから循環してくる、
神さまが本当に認めてくれる、本当に必要なもの。これが、神さまが与えてくれる必要なもの。
これはもう、自分が何も願わなくても、自然に与えてもらって備わる。
これが一番幸せなの。だから総ざらい。みんな捨てたらいいの。

全部捨て切って、今あるものの中から必要なものを残すのとは違う。反対。
今あるもの、過去のもの全部を捨てた方がいいの。後から出てくるのが、新たな神さまからの、新たな今、
必要なもの。汚れていない。本当に輝いた最高のもの。同じ必要なものでも違うの。
新たな必要なものがいいの。これはもう、全部捨てないとダメ。

肉体でも、肉体の自分を大事に守ろうというのでは間違う。そうではない。古い肉体を捨てたら、
新しい肉体が物質化して現れてくる。病気でも古い肉体を掴んで、治そうとしたらダメ。
掴んだままだから反対。この古い肉体を神さまにお返しする。そうすると、新しい肉体が神さまの方から
物質化して現れる。この肉体は完璧な肉体。新しい完全な肉体、健康な肉体。
すっと出てくる。置き換わる。置き換えが必要。循環の中に自分を置いたらそうなってくる。
同じ必要なものでも全部新しい置き換えの必要なものになったらいい。

今住んでいるのが自分の家って言うけど、自分の家っていうのが間違い。一日だけお借りした家。
明日出てきなさいって言われたら、出ていかないといけない。でも必要なものは与えてもらう。
それは今の家にいることかもしれない。でも新しい家なの。毎日神さまから受け直した家は、新しい家。
古い家は思いが一杯溜まっていく。新しい家は、光がどんどん強く輝いてくる。新しい家ほど、輝きが増える。
その練習を繰り返すうちに、神さまの世界に戻る。神さまの世界がどこか別個にあるように思ったらダメ。
常にここ、今ここ。形じゃない。

まず、神さまの絶対の中心ってどこ?どこに探す、どこにある?神さまの絶対の中心。
無限大の外の無限の無限の彼方の外?違う。そういう風に表現するけど、全体なの。全部。
全体が、絶対の中心で、その中心から、全ての全てから、全ての全てへ光が流れるの。
全方向から、全方向に流れている。一つの形で定めたら、全然違う風になってしまう。
常に、全ての全てから全ての全てに光が循環している。形で定めない。だから全体が常に絶対の中心。
そしたら支え合うお祈り。全てから全てへ与えるお祈りになったら、今ここが絶対の中心。
絶対の中心に、常に立てる自分に戻るためにそれを目指すの。だから絶対の中心を探してどこかに行く、
とかいうことではないの。そうではない。生き方が変わればいいの。

真の神さまを与え続ける。全てから全てに与え続ける。全方向から全方向に与え続ける、
こういう気持ちで、支え合う気持ちの生き方になればいい。それで、ありがとうございますを、
しっかり与え続ける、真の神さまを与え続けて、神さまが、全体がバックアップして与え続けてくれる。

一つに融け合えばいい。それが支え合うお祈りの自分。この時の自分は絶対の中心に立つ。
順番に心境を上げて、絶対の中心に戻って行くっていうけど、反対の方がいい。神さまと共に祈るっていう、
全体と共に祈るっていう生き方が、上から下へ降りる生き方。ポスティングは、そういう目的。
神さまと共に、全体と共に、みんなと共に、祈って、光を与えようという、その気持ちを具体化した、
ポスティング。だから支え合う真祈りの練習になっている。

だからバラバラに分けたらダメ。常に神さまと自分を一つに繋がないとダメ。
いつも神さまの目的を、神さまの願いを生きる。そして神さまに支えられた生き方をする。
どれだけ神さまのバックアップが大きいか。これを具体的に一つ一つ、
体験して実感して感じ取っていかないとダメだから、それでポスティングでも総責任者の立場に立つ。
これは神さまの心を汲み取るため。神さまのバックアップを感じ取るため。これが出来たら、総責任者。
神さまが本心の自分に戻しやすい。

(平成26年3月1日のお話③)