井戸っていうのは、自分の身体のこと。他にあるのではない。元々神さまの世界は、循環しているだけだから
井戸は必要ない。循環を、一瞬止めているわけ。本当は掴めないものだけれど、一瞬止めるということが、
掴むこと。それでその残像の中に入る。掴むっていうのは、それ一つだけを掴んでいる。
残り全部、自分のものではなくなっている。特に循環の世界は、掴んだだけが自分のものになって、
新たに新たに循環してくるもの全部、自分のものでなくなってしまう。小さく小さくなっている。
本心の本当の自分っていうのは、神さまの全てが、循環する全てが自分のもの。掴まなかったらそうなの。

だから掴むことでいかに小さくなってしまうか。無限分の一どころか、もっと小さくなる。
それでまず残像の世界に入って、虚の世界でもまた同じように、残像を掴んで掴んで、
それでどんどん小さくなってしまった。色んな我が、思いが、どんどんどんどん溜まっていく。
それでもまだ、循環のすがたが出ている間は、まだ湧き上がる井戸と同じ。
自分の中を湧き上がってくるものがある。だから菩薩界ぐらいまではそう。
残像の光でも湧き上がる光があって、それをみんなに与えようとする生き方がとれている。

でも更に掴み始めたら、掴むというのは、マイナスに心を向けていることで、
神さまから受け直しが出来てないということは、結局神さまに背を向けて、マイナスに心が向いていることになる。
これは、プラスがどんどん小さくなる、それだけではなく、今度はマイナスが増え始める。
言葉で言うと、真のプラスが虚のプラスになって、そのプラスも小さくなって、段々とマイナスの言葉に変わって、
マイナスの言葉がどんどんどんどんたくさん増えて、大きくなる。

だから井戸でも、最初は湧き上がる井戸だった。きれいな水が湧き上がる井戸だったけど、
段々とマイナスをどんどん溜め込んで、マイナスで一杯の井戸になってしまう。そしたらどんな井戸か。
ヘドロ一杯ぐらいではない。無限のマイナス一杯、もう、死んだものが一杯っていうような感じ。
悪臭、異臭、そんな程度ではない。もう鼻がもげるぐらいの匂いがする。底なしの井戸。マイナスで一杯。
それをどう変えていくか。

身体っていうのは、借りものだっていう意味。空っぽだっていう意味もあるし、借りものっていう意味。
自分のものとして掴んでしまったから、全てのマイナスを自分のものって背負わないといけなくなる。
借り物だったら、自分に責任はない。全部神さまにお返ししたら、背負わないで済む。

これが自分、これが自分のもの、この肉体もそう、これが自分のものって掴むから、自分に責任が生まれる。
だからこの世に、虚の世界に生きている間でも同じ。新たに新たに、神さまからの預かりもの、
借りものっていう風に、毎日毎日、そういう風に思い返せたら、マイナスを背負わないで済む。
神さまの方から借りているっていうのは、やっぱりプラスが加わってくる。
神さまからマイナスなんて来ないから必ずプラスに思い返せる。

だから神さまからお借りしている、神さまからお預かりしている、この気持ちになれたら、
自分のものが無くなっていく。元から自分のものでないから、自分のものとして使わなくなったら、
自分に何の責任も無いの。もともとが、神さまのものを自分のものに掴んで、
自分のものと決めたっていうことが、本当は、泥棒と同じなの。盗み取ったって。
これで、自分が自分を自己処罰する。神さまが処罰するのではない。自分が神さまのものを盗み取ったからって、
自分で自分を処罰する。神さまに顔を向けられなくなる。

でも神さまの方はそうではない。神さまは愛そのものだから、そんないらない気を使ったらダメって言っても、
聞かない。神さまの方は、いいものを無限に無限に一杯、与えようとしているだけだから、
そんな一つ掴んだくらいで責めるなんて、絶対しない。
そんな過去は関係ないよ、もっと新しいプレゼント一杯受け取ってほしいよ、
って言っているんだけど、それは頑固に聞かない。これが我の心。

だから過去を掴む、自分にとってこれが一番のマイナスの生き方になる。この世に生きていても、
どこに生きていても同じなの。絶対に過去を掴まない、そして自分のものにしない。
そしたら全体が、全部が、神さまからの愛のすがたで贈り物として目の前に出てくるだけ。
それで全部、使いこなせなくても、小さい自分は小さい自分なりに、必要なものが循環するようになっているし、
大きくなったら大きい自分に必要なものが全部循環してくる。神さまから与えられるもの、全部が必要なものなの。
その時その時の、自分の大きさに応じた必要なものが、確実に受け取れるように循環してくる。

だから本当は何の心配もないの。自分のものを捨てたら、自分のものとして掴まなかったら、
もう全てが、神さまからの贈り物。愛のプレゼント。一瞬一瞬がそう。絶対間違いないの。
この自分のものって掴むだけが、曲者。ホントは自分のものではないのに、自分のものと掴んだ、
この思いだけが、邪魔しているの。いくら自分のものって言い張っても、これはどこにも通用しない。
神さまの前に出ても、通用しない。

やっぱり人と人との間のやり取りも、同じ。これが自分のものって言い張っても、
他の人も、これが自分のものだって言い張ったら、ケンカになるだけ。
全てがそう。個人どうしも国どうしも同じ。国どうしが領土を争っているのも同じ。
自分の国のものじゃないのに、お互いが自分の国のものだって言い張るだけ。ケンカして、戦争になるだけ。
全て神さまのものなのに。だからこれが自分のものって掴まないことだけが、本当の大事な勉強。
でももしいったん掴んだら、すぐに神さまに返したらお終い。はい、お返ししますでいいの。

マイナスを手放すために一番大事なこと。自分にとって一番大事なものを、一つ外したらいい。
自分にとって、一番大事って握っているものを、一つ手放したら、後は全部放したことになる。
要らないものを、ちょっと手放しても、大事なものは握ったままだからダメ。一番大事なものを、一つ放す。
そしたら残り全部を放したことになる。そしたら別人のように自分が生まれ変わる。そしたら何が必要か。

お金が一番大事って思っている人、この世の人ほとんどがそうかもしれない。
守銭奴って言うくらい、お金が神さまより大事って思っているかもしれない。
この一番大事なお金を、ちょっと手放すだけで、自分の持っているマイナスが大きく消える。
だからポスティングで資金協力を願う、これは一番大事なものを手放す一つの行動。
本当はお金が大事っていう人は、一円でも出したくない。千円出すって大変なこと。
一万円出したら、ものすごい出したことになる。本当にそう。神社にお参りしても、10円は放り込むけど、
一万円って出す人はいない。どれだけ願掛けして、神さまにお願いしても、一万円を出す人は、めったにいない。
そのくらい出しにくい。でも一万円を出したら、すごいこと。自分の大事なものをそれだけ出せたら、
自分の持っているマイナスが、大きくごそっと消える。我が消えて、思いが消える。
まず第一段階、それが出来た人は、思いがかなり減るから、それで本心がかなり出てくる。
そしたら前向きな、プラスの生き方になる。本当の菩薩を目指す心に変わってくる。まず最初の一回。
みんなも一回お金出したら、あと出したくなる。連続して。そのぐらいの感覚。

(平成26年3月1日のお話①)