神さまは、人に何も願っていない。こうして欲しい、ああして欲しいは、一切ない。その反対。
お金を出しなさいなんて神さまは言わない。全部要らないって言う。
こんな虚の世界のつまらないものは、何もいらないって言う。どれだけ素晴らしいと言っても、
そんなのはいらないって言う。神さまには、虚の世界は必要ない。要らない。本当は拒絶される。

ところが、人が本当に真剣に願って、この命を捧げます、どうかこの命を神さまのお役に立てて欲しいと、
真剣に願って、喜んで差し出したら、受けてくれる。お金も同じ。神さまは、本当はお金なんか要らない。
思いの一杯ついた、マイナスの一杯ついた、借用証書が一杯ついた、一万円でも、
無限億万円の借用書がついている、そんなものはいらないって言う。
でも命を懸けて、このお金でも、使って欲しい、と願ったら、そのマイナスを消してくれる。
マイナスを消すためだけに、受け取ってくれる。神さまはマイナスを消してまで使おうなんて、
そんなことはしない。必要だったら、プラスのお金が無限にある。出してもらう必要なんかない。

喜んで出させるのが目的。これは大きいプラスを、無限のプラスを与えるために、
与える心を起こさせるのが目的よ。仏教で托鉢というのがある。自分の食べる物を渡したら、無くなるけど、
出させる。托鉢は、貧しいところを回らないといけない。お金持ちのところを回ってもダメ。
お金持ちは、自分の大事なものを出さないから。今食べる一食も無いところへ回る。
それでその一食を差し出させる。一番大事なものを、与える心を起こさせる。
その時に仏の慈悲の働きが加わる。大きい救いを与えることが出来る。これは波が合うから。
与える心と与える心の、波が合う。一番大事なものを与えるから、神さまの、仏さまの、
一番大事なものを与えてもらう、これで救われる。

だから本当の信仰は、常に、真の神さまと一対一の関係におかないとだめっていう。それが一番大事なこと。
この菩薩の悟りへの道、六波羅蜜。六つの生き方がある。何回も勉強している「布施行」。
次は、「持戒」。戒律を守る。戒律ってどんな戒律がある?本当に必要なことだけするのが、大事。
本当に必要なことだけをするのが、戒律を守ったことになる。余計なことをしたらダメ。
一番必要な大事なことだけ出来たら、戒律を守った状態。これが難しい。

「忍辱(にんにく)」。辱めに耐え忍ぶっていう忍辱。どんなマイナスも、これが大きい借金返しの姿だったら、
喜び勇んで受けないといけない。何があっても喜ばないといけない。
本当の大きい借金を、万分の一、億分の一にして、消してあげようと出てくる。どんなマイナスもそう。
だからそれを本当に喜んで受けるのが、修行。それが忍辱の修行。
次は、「精進」。これは真の神さまにどこまでも近づこうとする。ひたむきな、ひたすらな心。
本当に神さまと一つになりたい、それしかない心。真の神さまが本当の自分だから、そこに戻りたいっていう、
本当の真剣な心。

次は「禅定(ぜんじょう)」。座禅の禅。禅の字は示すに単と書く。
直示単伝(じきしたんでん)、直接に示して、一つのものを伝えると書く。真の神さまと自分との一対一の関係。
これが一番の奥深い、心の状態になる。座禅を組むというけど、色んな段階の座禅の組み方がある。
一番最初は、仏教では、「白骨観(はっこつかん)」。これは、肉体に執着しないために教える。
一皮剥いたら血みどろだ、死んだら白骨になるんだって。肉体なんて、儚い虚しいものだから、
執着するなという教え。これを実践するのが、「白骨観(はっこつかん)」という観法。
次は「無常観」。この世は無常だって。何一つ、永遠のものはない。消えて儚く無くなるんだ、全部そうだ、
無常だという「無常観」。これも観法の一つ。この段階をずっと追って、最後に来るのが、
真の神さまと一対一の、本当の禅。そこに気持ちを定めないといけない。
だから真の神さまと一対一に定めるのが禅定。

最後は、「般若」の智恵よね。「般若」というのは本心と見たらいい。本心の智恵をしっかりと生きないといけない。
普通は思いの心は知識を生きている。過去の経験知識、自分の思いの心を生きている。
これは全部捨てないとダメ。思いを捨てて、智恵を生きる。智恵というのは常に、新たに新たに降り注ぐ、
湧き上がる。過去は無関係。常に今、必要なものが、神さまの方から湧き上がってくる。
一番正しい、神さまの心の働き。この六波羅蜜、全部同時に実行するのは不可能。難しい。
だから一番最初に出てくる布施行に絞り込む。

全部実行は難しいから、一つに絞るとすれば「布施行」になる。「布施行」は一番大事。
それも、「無畏施」・「法施」・「財施」と3つある中で、「無畏施」はまず無理。
「法施」もまず無理。最後に残ったのが、「財施」になる。「財施」は、自分が、これが一番大事、
いのちよりも大事という、本当の宝物を一つ掴んだら、これを与えること。それがポスティング。
真理の言葉の塊のポスティングをすればいい。本当の真理の言葉を与えることが、
「布施行」の中の一番下の「財施」ではあるけれども、真の神さまと一つに繋がるための、唯一の道になる。
神さまと繋がる方法はそれしかない。そこへ自分の全てを投げ出して、神さまの御用に使ってもらったらいい。
神さまと一つになればいい。

ポスティング運動が、本当に絞って絞って絞り込んで、一点集中で虚の世界にピンホールを開けてくれる。
虚の世界へ、真の神さまの光を注がしてくれる。ピンホールは、カメラのピンホールのこと。
小さい穴が空いたら光の世界がさっと映し出される。虚の世界は闇。神さまの世界が本当の光の世界。
ここに一点の穴を開けないとダメ。細い針の一番先の小さい穴、本当のピンホール。
この一点の小さい穴が開いたら、虚の世界へ、神さまの光が差し込む。これをするために、ポスティングがある。
本当の全てを絞り込んで、絞りこんで、最後に残った、針の先。一点集中で本当に全力を込めないと、穴が開かない。
いい加減に持っていっても開かない。本当に、自分の全てを注いで、穴が開く。これがポスティングの目的。

そしたらお金を出すのでも、自分の全てを投げ出すって、100日でも、死ぬまで断食すればいい。
その覚悟が無かったら、本当に地獄から本心の自分に戻りたいなんて願えない。
菩薩行をしなかったら、棚上げしたマイナスを全部戻される。この世にいるからまだ、一生、たかが百年、
のんびりしているように思うけれど、あの世に行って戻されたら、どうする。また地獄に戻ってしまう。
これは菩薩行をするかどうかで決まる。せっかく菩薩行をさせるために、何億年以上助け続けてきたのに、
ここで神さまの期待を裏切って、捨ててしまったら、何億年の助けがみんな無駄になる。また最初からになる。

だからこれは誰のためでもない。自分自身のため。自分っていうのは、小さい自分ではない。本心の自分。
本心の自分のために、ポスティングをする。だから肉体の自分が力を発揮するのとは違う。
本心の自分の全ての力を発揮しないとダメ。本当の、不退転の決意がいる。絶対に後ろを向いたらダメ。
絶対に全ての借金を返して、虚の世界を消して、本心の自分に戻るという、不退転の決意が無かったらダメ。
これはもう、一大決意と一大勇猛心がいる。生半可な心じゃできない。時間を無駄にするだけ。

(平成26年2月15日のお話②)