本当の真の言葉は、神さまの口から新たに新たに出てくる言葉。生きている言葉。
過去の言葉は全部死んでいるね。いくら美しいプラスの言葉って言っても、押し葉みたいなもの。
死んだ言葉になっているかもしれない。常に新たに出てくる言葉だけ。
本当の神さまの口から、真の神さまから出てくる言葉が常に一番必要な言葉になる。
そういう意味で、一番必要な言葉っていうのが大事。

イエスキリストが、山の上から大勢の群衆に向かって説法している、みんなに一番よく知られている言葉がある。

幸いなるかな 心の貧しきもの 天国はその人のものなり

幸いなるかな 悲しんでいるもの その人はなぐさめられん

幸いなるかな 柔和なるもの その人は地を嗣がん

幸いなるかな 義に飢えかわくもの その人は飽くことを得ん

幸いなるかな あわれみあるもの その人はあわれみを得ん

幸いなるかな 心の清きもの その人は神を見ん

幸いなるかな 平和ならしむるもの その人は神の子ととなえられん

幸いなるかな 義のために責められたるもの 天国はその人のものなり

これは、山上の垂訓という有名な話だけど、ここに今日勉強会で話し合った問題全部の答えがある。
まず、心の貧しきもの。これは心の中に一切の思い、我のない人っていうこと。
心に我が、思いが一杯ある人が、富めるもの。「富めるものの天国にいるは、ラクダの針の穴を通る如し。」
絶対不可能っていう。だから我が、思いが一番の癖もの。これが自分、これが自分のものって掴んでいる我が、
思いが、大きく邪魔するの。 普通それが、沢山あるほど、喜んでいる。
だから自分の財産を増やしたら喜んでいる。知識が一杯だったら喜んでいる。これが間違い。
だから一切、自分、これが自分、自分のものっていうのがないのがいい。我の無い、思いのないのが、
心の貧しきものなの。天国はその人のものなり。

 人の心境を大きく分けたら、本心側から見たら、本心の輝きの程度に応じて、十界が決まる。
だから地獄界、餓飢界、これ本心が気絶して眠っている状態。それで畜生界、修羅界になると、
ちょっと目覚めて動き回るすがた。それが本心の保育園。人間界、天上界、これは幼稚園。
声聞、これが小学校。本心がかなり目覚めて来て勉強を始める。縁覚が中学校。菩薩界が高校。仏界が大学。
大学を卒業して初めて、本心の世界になる。支える・支え合う世界。

 本心がどれだけ大きく輝いているかによって、一番下から一番上まで、無限の段階に配列されている。
だから我があるほど下に落ちている。思いがあるほど下に落ちている。我が消えて、思いが消えていくほど、
本心が大きく輝く。本心が輝くほど、上になっている。我のない思いのない人は、天国に、神さまの世界に住むの。

そしてね、悲しむ、自分が悲しむのとは違う、人の苦しみを見て悲しむ。悲しむものはなぐさめられん。
神さまの愛によって、なぐさめられるの。本心は、人の苦しみ、それを自分の苦しみのように、
同慈同悲の心、慈悲の心を起こす。これが悲しみ。だから神さまの愛と一つになっているから、
それを神さまが癒してくれる、なぐさめてくださる。

そして柔和なるもの、地を継がん。柔和なるものは争わない。マイナスと戦わない。
虚の世界のマイナスと戦ったら、柔和なるものといえない。何があっても、争わない、戦わない。
だから地上天国はその人に訪れる。プラスだけが降り注いで、地上天国がそこに生まれる。

そして義に飢えかわくもの、義っていうのは神さまの御心。本当の、神さまの御心が正しいもの、義なの。
義に飢えかわく、つまり、本当に神さまの御心を飢えかわくように求めていないとダメ。
本当の神さまの御心とは何か。一瞬一瞬の、神さまの御心を汲み取ろうとすること。
本当に一滴の水を求めて、飢えかわくような気持ちで、神さまの御心を問い返さないとダメ。

 その人は、飽くことを得ん。神さまの御心で満たされる。神さまの御心がそのままスッと入ってくる。
よくわかるようになる。飢えかわくように、神さまの御心を求めないとダメなの。
わかったつもりだったらダメ。一瞬一瞬新たなる、神さまの御心、今何が一番必要か、
その必要なものを与え尽そうとする神さまの御心を感じ取らないとダメ。
この一瞬一瞬、本当に飢えかわくように求めること。どれだけ真剣さがいるか。
そしたら神さまの御心がスッと入ってくる、流れ込んでくる、わかる。本当の神さまの御心をわからせてもらう。

それで憐れみあるもの。本当の憐みの心があるものが、神さまの愛の心で満たされるの。憐れみを得ん。
神さまの愛を受け取ることが出来る。神さまの愛そのものになれる。

そして、心の清きもの。思いのない、我のない、澄み切った状態が、本当に心の清きものよ。
その人は、神さまを見る、神さまと出会える。一瞬一瞬新たに。神さまと出会うことが出来る。
だから一切の我・思いを消さないと出会えない。心を清らかにするっていうのが大事。
これは心を清らかにする、思いを消すだけじゃダメなの。思いの心を消して、本心を大きく輝かさないと、
本当の清らかな方の清きものにならない。思いを浄化して消すだけでは、何もないの。
本心を大きく輝かした状態が、心の清きもの。だから本心の自分をしっかりと生きて、
本心の自分を輝かして初めて、神さまと出会う。だから心清きもの、これを目指さないとダメ。
本心を大きく輝かす。

平和ならしむるもの。この地球なら、地球を本当に守るっていう、本当に平和な状態にするっていう
この働きをしてこそ、神の子として唱えられん、本心の自分として認めてもらえる。
だから地球を平和にしなかったら、まだ本心じゃない、神の子じゃないの。
具体的に、働きを加えて、地球を守って平和にしないとダメなの。それせずに神の子なんて言ったら笑われる。
それは偽の神の子、偽の本心になる。

そして、最後。義のために責められたるもの。神さまのために、一生懸命自分の命を捧げて、
絶対奉仕に生きて、本当に神さまの手足になって動いているとしても、思いや我は、反対の生き方だから、
反対に攻めまくってくる。だから迫害とか妨害、いっぱいあってもいい。
それがないようだったら、そこから逃げているようだったら、何もしてないと同じになる。
それは、本当の意味での、光と闇の戦い、プラスとマイナスの戦い。自分が総指揮官となって、
マイナスを消し、闇を消し、というのなら、全責任を持って全てのマイナスを全部引き受けてでも、
消していかないとダメ。だから責められたるものって、責められないと本当はダメなの。
そこまで行って本物になる。神の国はその人のものなり。

(平成26年2月8日のお話①)