仏教で菩薩が本当の悟りを開くために実践しなければならない道、六波羅蜜というものがある。
その第一番目に出てくるのが、布施行。布施行には3つの過程がある。
財施・法施・無畏施(むいせ)。菩薩というのは元々与え尽す心を生きている。
自分の全てを与え尽して、人を救おうとしている、助けようとしている。
その菩薩が本当の悟りを開くために、実践しなければならないこと。
六波羅蜜には、布施・持戒・忍辱(にんにく)・精進・禅定(ぜんじょう)・般若というのがある。
今日はこの最初の布施行、本当の布施行とは何かということを考えてみたいと思う。

無畏施の無畏っていうのは、畏れなき心。何かマイナスから恐怖心で逃げる、その恐れではない。
神さまを敬うのでも、畏れ敬うという気持ちがあるけど、その畏れのことを言っている。
神さまと自分とを遠く離したら、もう畏れ多くて、足元にも近寄れない。
この畏れがあったら、神さまと自分とが離れているからダメなの。
神さまと自分とを一つに繋がないと無畏の心にならない。畏れなき心にはならない。
どうしたらいいか。まず、神さまの中に飛び込まないとダメ。離れたらダメなの。

だから我の自分を掴むと、自分はダメだダメだって思いこむ。そうすると遠く離してしまう。
それだと神さまから、いくら愛の光を強く与えてもらっても、畏れ多いって逃げる。
いくら神さまを敬って尊敬していても、あまりにも光が強すぎるとか言って逃げ出す。
その近寄りがたいっていうのは畏れの心。これを絶対無くさないとダメなの。
神は絶対の愛。愛そのもの。神さまの愛の中に飛び込まないとダメなの。
そのために何が必要か。一番大事なのが自分を神さまの中に預けきること。
過去の一切を神さまにお返しすること。どれだけ自分がマイナスで一杯でも、
そんなことは関係がないの。

人間でも、母親の愛って大きい。子供が、どれだけ汚れても「お母さん」って言えば、
きれいにしてくれる。自分が汚れているからお母さんに何も頼めない、ということはないでしょう。
逆に、マイナスが多いほど、お母さんって呼んで助けてもらわないとね。
我の自分は、マイナスの思いで一杯だけど、このマイナスが多いからこそ、
神さまの愛の中に飛び込まないと。神さまと自分とが一体だって、
真の神さまが真の自分なんだって徹底して思い返さないと。まず、この無畏の心に戻らないといけない。

この無畏の心を与えるというのが、無畏施。これは真祈りになる。真の神さまを与え続ける。
真のプラスを与え続ける。一大循環の愛の相象を与え続ける。真祈りを祈り続けることが、無畏施。

そこから出発して、法施。法っていうのは、真の神さまの働きそのもの。
随神、神催し、神任せ、自然法爾って、水が自然に流れるような感じのすがたを指す。
だから神さまの愛の働きそのもの。だから真理を施すともいうけれど、
真理というのは、真の神さまの働きという意味。この真の神さまの働きのままになることが、法施。
常に神さまは働く。真祈りを祈り続けると、神さまが必要な働きをしてくださる。
それが具体化すると、現実化して出てくる。

この財施というのは、自分にとって一番大事なもの、宝物。菩薩にとって何が一番大事か。
それは、悟りへの道を示してくれる、真理の言葉。自分が受けた、学んだ、
本当に命よりも大事な真理の言葉は、本当は命よりも大事な宝物なの。これをみんなに与え続ける。
自分一人が、宝物を握って喜んでいるようでは、菩薩にはなれない。
自分の与えてもらったものを、みんなに同じように施していこうというのが、菩薩の心。
だから真理の光を順番に点灯していく。一人ひとりに光を点じて、無限に広げていく、無尽灯。
これが財施なの。

だから菩薩が無畏の心で真祈りを祈り続けて、そして、神さまの働きのままに、
心の世界を浄め尽くして、現実化すると、真理の言葉を全体に広げる働きになる。
これが菩薩に課せられた布施行。

世間では、逆に思いの心で見ると、バラバラに解釈をする。財施はお金を持っている人、
財産のある人がすることだと思ってしまう。そういう人は元から菩薩とは言わない。
自分のものを掴んでいるような人は、いくら財産があってお金があってもダメなの。
財施とは、財を持っている人が、菩薩であるお坊さんに財を捧げることによって、
真理の言葉を教えてもらうんだっていうような考えの人がいて、
それで財施・法施・無畏施って3つに分けてしまう。これは思いの心の見方だからそうなっているの。

でも菩薩が悟りを開くための実践道としての布施行はそうではない。
無畏施と法施と財施が一つに繋がっていないとダメなの。無畏施から出発して、法施になり、
財施になって、真の神さまの光が全体に満ち渡ってこないとダメ。奥から現実化してこないとダメなの。
だからバラバラに離れたものが、一番奥のすがたに戻ることはできない。反対。
奥から降りてきたものが現実化して、一つに繋がって、初めて現実の悟ったすがたになる。
これでないと本物にはならない。だから財施だけしても、意味がないの。何の役にも立たない。
力にならない。財施だけ一生懸命やっても、法施にはならないし、無畏施にも絶対ならない。
近づくこともできない。

だからいくら財施だからといって、我の心で自分の財産、自分の命を投げ出して、
いくら施しをしてずーっと与え続けてもこれはダメなの。菩薩の実践道の無施行ではない。
これだったらいくらしても何の役にも立たない。悟りには至らない。だから本当の悟りへの道、
本当の悟りを開くための道でないと、本当の菩薩行、本当の布施行にならない。

この冊子配り、真理の言葉を与え続けるすがたをとるのだけど、このバックが大事。
真の神さまが真祈りを祈り続けて下さって、自分も真祈りを祈り続けて、
神さまの働きが一大循環の相象(すがた)を取りながら、虚の世界に流れ込んで来て、
それが現実化すると、この真理の言葉を、みんなに伝えるすがたをとる。
それが本になり、CDになり、色んなすがたを変化させながら出てくる。
奥から一つに繋がって出てきたのが、本物なの。その小冊子を配るっていう現実化したすがたが、
本当の大きい光を与えていることになる。大きい循環の流れを起こしていることになる。

その功徳によって、菩薩は悟りを開く。逆に言うと、真の神さまは現実化して降りてくるから、
それがそのまま悟ったすがたをとるようになる。与える中に、そのまま真の神さまが現実化して現れる。
それが菩薩の悟りになる。だから肉体を持ちながらでも、悟った心境になってくる。
肉体を捨てて、全部捨てて、奥に戻って悟るというのとは違う。
肉体を持ったままで、悟りの心境になる、悟りが開けるの。

だから祈りながら、真祈りを祈りながら、自然に自然法爾に神さまの導きのままに動かしてもらって、
そして真理の本当の光、神さまの本当の愛の光を、みんなに届けようとする。
一つ一つ、一冊一冊いれる所が、光の拠点になる。一冊いれたら、そこから光が放射される。
縁あるところへさーっと広がる。その場所だけじゃない、その場所に縁あるところに、光が大きく広がる。
だから現実の形はあんまり掴まない方がいい。配るのは、あくまでも拠点。
一点、拠点を作っているだけ。無尽灯、光の灯を立てていっているだけなの。
灯台を立てていっているような感じ。一冊一冊が灯台になる。
灯台が一杯になると光が全体に満ち渡っていく。

同じ一つのことを実行するのでも、本当の悟りへの道を歩む方がいい、本当の菩薩行をさせてもらう方がいい。
真の菩薩行。真の神さまが菩薩行に使ってくれる、真の菩薩行。
そしたらみんなが自然に、心境をレベルアップしてもらう。真の神さまの心がそのまま自分の心になり、
周りの人の心に変化する。だから一冊配ることに、本当は無限の価値がある。

(平成26年1月4日のお話①)