常に、天照大御神様が本心の自分。天照大御神様としての自分を、どうやって把握していくか。
一番最初は、六道の世界、求める心の世界を生きている。求める心の世界というのは、
神さまを拒絶して拒絶して、神さまに心を向けない世界。
声聞・縁覚になって、やっと神さまに心を向け始める世界になる。
六道に生きている人は、神さまに背を向けている、残像の光にも背を向けている。
全くの闇に心を向けている。闇に向けた時どうなるか。自分のすがたを闇に映したら、闇が鏡になる。
窓ガラスがあって、外が真っ暗闇で中に光があると、窓ガラスが鏡に変化する。
明るい方から暗い方へ向いた時は、暗い方が鏡に変化する。映るのは自分のすがただけ。

だから、六道の世界は全部周りに映るすがたは、全部自分のすがた。
「立ち向かう人の姿は鏡なり。己が心を映してや見ん。」
「立ち向かう人の心は鏡なり。己が姿を映してや見ん。」
周りの人の姿も心も、自分の心や姿の、鏡に映った姿。六道に生きていたらそうなる。
まだ真の神さまに心を向けていないから、闇に心が向いている時は、全部そう。
これはもう、厳然としている。

次に、声聞・縁覚の生き方を取る時に、やっと神さまに心を向け始める。
ちょうど太陽に心を向けて、向かうような感じ。でもまだ空に雲が漂っている。
そうすると、太陽の光が雲の裂け目から差し込んでくる光になる。
雲に隠されて、光のないところもある。声聞というのは、光の差し込んでいるのを数え上げる。
光だけを数え上げてプラスに見ていこう、という心境。縁覚は、雲の上の光も捉えようとする。
この雲は、自分の心の中のマイナスの思いなんだと反省して、神さまごめんなさいと謝って、
ありがとうございますと唱えて雲を消してもらう。全てをプラスに思い返せる。
雲の上の光を受け取る生き方。それで声聞・縁覚の生き方を卒業していく。

菩薩・仏になって初めて、雲の上で光を浴びる。これもまだ残像の光。
光一杯になってプラスの自分に変わる。でもまだ残像の光を受けているだけ。
与える生き方では足りない。自分の持っている光を与えるだけでは、与えたら消えていく。
マイナスへ心が向いたら、吸い取られて消えていく。
これで真の神さまへ心を向け切って、真の神さまへ心を向けるというのは、
支える・支え合う生き方に変わらないとダメ。支えるというのは、真の神さまを与える、という生き方。
自分の持っているものを与えるだけでは小さい。残像の光で終わってしまう。
与えたら無くなる。

でも真の神さまを与えるというのは、真の神さまの循環の後押しを受ける生き方になる。
与えたら与えるだけ、真の神さまが流れ込む。真の神さまを与えるという真祈りを祈って、
真の神さまを、順番に循環させてもらう。真実の世界は元から無限のスピードで循環している。
でも虚の世界では、循環が止まって入って来ていない。
だから、虚の世界に一大循環の相象を持ってきて、そのスピードを加速する。
真祈りを祈るというのは、虚の世界の流れを加速するという意味。
真実の世界は元から無限のスピードだから、加速も何もいらない。
真実の世界の流れを虚の世界にもちこんで、虚の世界の一大循環の流れを加速して
真実の世界に戻そうとする。

神さまの与え方は、常に必要なだけを与えてくる。残り全部をUターンさせてくれるけど、
虚の世界に対しても同じような与え方で、必要なものを与えてくる。
余計なものを与えない。その与え方が、円環のすがたをとって、必要なだけの量をさっと与えてくる。
受け方は、その中で自由に受けるという生き方。

ちょうど水道水でいうと、大きい水源があって、そこから太いパイプで流れてくる、
その太いパイプそのまま流していいところはそれでいいけれど、
そうするといっぺんに大洪水になる。順番に絞ってこないとダメ。
一番細くなって、なおかつ、細いままでも全開にすると量が多い時がある。
ばーっと吹き出したら困る。その時は、蛇口で絞って加減する、
なおかつ、一旦末端でも、シャワーにしようと思ったら、シャワーのように絞る。
その量の加減というのが自由自在になってこないと、本当に必要なものを
的確に与え尽す生き方にならない。虚の世界はそういう風に、一応ある程度の用意をしておいて、
順番に人の自由を尊重しながら選べるようにしている。そして必要なものを与え続けてくる。

常に与えっぱなしというのが神さま。今、神さまの世界を受け直した人、
この人は受け直したから、次も欲しいだろうから与えようというのではない。
受け損なったり、拒絶して受けなかったり、受け取らなかった人にも、
次の瞬間に受け取ろうとするだろうと与えようとする。だから常に、全部に与え続けようとしている。
受ける受けない関係なし。常に平等のチャンスを与え続けている。

真実の世界はそう。常に平等のすがたで、全部に、真の神さまの全体像を全部与え続けている。
ただ、受けるのは、人の自由に任せている。虚の世界も同じ。
常に全体を、虚の世界の光の全体を、全部に降り注がせようとしている。
全体を、全体から与えようとしている。だから、どれだけ拒絶しても拒絶しても、
与え続けてくれているのが、本当のすがた。ただ、それを受け取るか受け取らないかが
人の自由になっている。拒絶し続ける人は受け取っていないだけ。

過去無限の年月拒絶し続けていても、今の一瞬、ありがとうございますになった人は、全部受け取る。
それは、一瞬に変わる。だから神さまは、常に平等に与え続けようとする。
その神さまの真似事としての生き方は、同じように与え続けないとダメ。
お祈りしていても、いくらありがとうございますを唱えていても、求めるありがとうございます、
受けるありがとうございます、単なる与えるありがとうございますでは、平等にならない。
菩薩・仏の与える祈りでも、小さすぎて、平等にみんなに届かない。一部分にしか届かない。
これはまだ真の神さまの与え方と全然違う。

それで支える・支え合う生き方がいる。真の神さまを与え続けるお祈りは、
平等にみんなに真の神さまを与え続けられる。真祈り、真の神さまを与え続ける真祈りというのが、
絶対に必要になる。それも自分の一つの立場から真の神さまを与えるというのは、
どこかが抜けてしまう。影が出来る。自分の向いた方向にしか与えていない。
自分が全方向に360度全部に、向けられているかというと、向けられていない時もある。
これが自分という立場から全方向にというのは間違い。これだと小さいから与えられない。

自分が大きくなって、外から全体を与える立場になれているかどうか。
それでも、自分の立場が小さかったら、更に大きい所へ与えていない。
だから全ての全てに与えるためには、みんなの助け・支えが必要になる。
全ての力を一つに合わさないと。本当に真の神さまの与え方になってこないとダメ。
それで支え合うっていう祈りが、必要になる。だから自分が真祈りを祈っているという祈り方では、
小さい祈り方。真の神さまと共に祈っている、みんなと共に祈っている、支えあって祈っている、
このお祈りになったら、全体に平等に真の神さまを与え続ける祈り方になる。
この真祈りが祈れたら、常に真の神さまが自分の中を循環してくれる。
いつも最高の無条件の幸せが一杯湧き上がる。こういう自分に戻って行くというのが一番必要。
一番の目標・目的でないとダメなの。

だから虚の世界を消す大きい働きをするんだというのも、本当は枝葉のちっぽけな問題かも
しれないけれど、これが本当の自分に戻るための、練習台みたいなもの。
真の神さまを与え続ける練習をすることによって、真の神さまとの一体感を大きく深く本物にしていく。
だから真の神さまを与え続ける練習というものをしっかりとするほどいい。

真の神さまを与える生き方がどういう生き方があるか。言葉だけ、祈りだけでいいのか、
もちろんお祈りが根本で一番大事なことだけれど、それだったらもう、他にも何も必要ない
ということになる。心も体もいらないってなってしまう。祈りだけでいいのだったら、
無色透明の自由自在心の意識だけでいいじゃないかとなる。

でもこの肉体がある、心があるというのは、そこでも真の神さまを与え続ける生き方を
取った方がいいという意味。だから、肉体の自分を道具として、この道具を使って、
真の神さまを与え続ける。それはどういうものか。真の神さまというのは、真のプラスの言葉そのもの。
本当の力のある真のプラスの言葉を与え続けたらいい。そうすると真の神さまを、
この世的にも与えていることにもなる。それがまた自分を本心の自分へ大きく戻す働き力になる。

(平成26年1月1日のお話②)