真のありがとうございます 

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 本当の悟りへの道というのは、もうすでに神さまの方から用意されている。
ただ虚の世界の迷路の中へその地図を持ってきても、この迷路にいる人が、その光の道へすぐにパッと入れるわけではない。
入口は一つ。

 救われの道なんて、一本光の道が通っても、虚の世界から見たら、遠い輝いて見える道。入口ではない。
本当の救われの道は、ちゃんと全部備わっている。展望台的に、螺旋階段を上る道もあれば、エスカレーターもエレベーターもある。
虚の世界の無限億万光年を一瞬に越える道もある。全部用意されているのが本当の神さまの道。

ただ、そこへ入るのには、入り口を探して入らないとダメ。まだ、みんな虚の世界の人は入口探し。
どこからでもその道に飛び込めるわけではない。この世の高速道路も同じ。どこからでも車は入れるかというと、入れない。
入口がある。途中からだと、どうしても高すぎて入れないところが一杯。入り口でもちゃんとチェックされる。

神さまの世界に入る悟りへの道ほど、厳しい。入口のチェックが厳しい。
そこへ入っても、逆に走る人があったら困るから、本当に同じ流れの方へ向くかどうか。
スピードは別にして、逆へ行く人だったら、みんなの足を引っ張って邪魔する。そんな人は入れてくれない。
だから、厳しいチェックが、何重にも何重にも施されてくる。それはもう、自由意志を尊重して、みんなを守るため。

虚の世界の地図は全部迷路。縛りだけ。どんな地図を作っても無駄。地獄への底なし沼への道。
本当の道は、すでに神さまの方から用意はされている。そこへ入る道、どうしたら入っていけるかという道探しを、
みんなしているだけ。地図を作っても入れない。地図と実物とは違う。

実際に入ろうと思ったら、やっぱり実行。実行が第一。理屈をいくら知っても、百の理屈を知って、いくら口にしても、役に立たない。
それよりも1回のありがとうございますが役に立つ。どちらの方が、力がある?1回のありがとうございますの祈りの方が、力がある。
普通の単なるありがとうございますでもそう。それ以上に、真祈りになったら、1回の真祈りは、万の真理を知ることよりも価値がある。
優れている。力がある。真祈りは、本心の自分に戻らないと出来ないから、本心の自分を真剣に生きようとして、
初めてありがとうございますが、真祈りに変化する。それは、宇宙の万の真理を知るよりも価値がある。優れている。
大きい働きに変わる。

だから、祈りの実行を目指さないとダメ。それも本心の側に立って、祈らないとダメだから、日常生活の全てが、本心側に立つ勉強。
どうしたら本心の自分を忘れずに、本心を生きようと出来るか。普段全部が、支え合いにならないとダメ。
自分を消して、大事な仕事から順番に、片っ端から支え合って、一つ一つ片づけていく。支え合いの中に、色んなすがたが出てくる。

支え合おうとしたら、自分も必要な時に支え上げてくれる。上に立つ、下に立つではない。
自由自在で、ある時はみんなで誰かを支える。ある時は、自分をみんなが支えて、一つのことをするかもしれない。

常に、支え合いをしないと真の神さまの助けは絶対降りない。これを普段から実行しないとダメ。
そして、本心の自分を引っ張り出して、お祈りする。お祈りほど、真祈りほど、支え合いのすがたを取っている。
入れ子構造的に大きい支え合いのすがたをとるのが、真祈り。

だから、日常生活の全てが支え合いの練習。それで本心の自分を生きようとする。
本心の自分は、常に、支え合いの中にしか出てこられない。少しでも自分を出したら、また自分を引っ込めたら、我の自分。
表に出るのも我だけど、引っ込むのも我。どちらも大きい我になる。両方我を積み重ねるから、我が減らない。

支え合いには、我が無い。一つの目的に向かって、自分が下から支える。また押し上げてもらって、支えてもらう。
両方、自由自在。ただ必要なことをスピード化して、片っ端から片付けていくすがたをとる。
一大循環の相象は、必ずスピード化していかないと。神さまの働きは常にスピード化を目指している。
一大循環の加速。加速して、流れを速くして、虚の世界全部を押し流して消そうとする。

 止めるのは、みんな我。止めているものを全部押し流して消そうとする。一つ一つ消すのは大変。
一個消すだけでも大きい痛みを伴う。押し流すのだったら、軽く消えていく。痛みを伴わずに消してもらえる。
だから、押し流す練習。一大循環の中で、支え合いの中で、自分を神さまに渡していく。捧げ尽くしていく。
それが、どれだけ大きい我でも、数の多い無限の我でも、早く消してもらえる生き方。
これをみんなが目指さないと、本当の真祈りにまで行かない。


(平成25年7月27日のお話 第1部B)