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 一大循環の世界に住んでいて、過去を掴む。一瞬でも掴んだら、それは我。これが自分って掴んでしまったら、我。
最初の掴み方は大きい。宇宙が自分という掴み方だから大きい。だから、我は大きい我。ただ掴む回数は少ない。
残像をどんどん掴んで掴んで掴んでとなると、これはもう掴むものが小さくなっていく。下へ降りるほど、小さい我。ただ、数が多い。
無限に数が増える。上の方では我は大きく、数が少ない。下の方は、小さい我が無限に一杯という我。

その我を消すのでも、小さい我を一個消すのだったら簡単。ほこりみたいなものだから、吹けば飛ぶような感じ。
でも、大きい我というのは、全大宇宙という感じだったら、一つの我でもなかなか消せない。

 この世でも、自分の大事なものが無くなったらどうなる?自分にとって一番大事な人が、もし死んだとしただけでも、
どれだけの苦しみを心の痛みを味わうかって考えてごらん。小さいものではない。この世でもそう。ただ一つの小さいものでもそう。

仏界にいる仏様は、大きい全大宇宙を自分の世界として持っている。これこそ最高、無限の価値のあるものって。
もし、それを消さなかったら、まだ我がある。一大循環の世界と比較したら、自分の掴んだものは、流れを止めている。
大きく我を出していることになる。そういう最高に見える大きいものでも、消さない限りは、一大循環の流れを止めている。

どれだけ大きいお城を作っても、お城をでんと据えたら、もう流れを止めている。
だから、阿弥陀様が西方極楽浄土という大きい宇宙を作ったとしたら、大きい流れを、全部ばーんと止めてしまう。
虚の世界は、みんな止めた世界だから、もしその一大循環の流れを邪魔しないように、
その止めた我を全部消して欲しいとなったら、その大きい価値のあるものを消すときほど、無限に苦しみ、痛みが伴う。

本当のマイナスだったら、消してもらってありがたい。これがもう、地獄の苦痛だったらそう。
消してもらうほどありがたいから、いくら消してもらってもいい。
ところが、プラスの価値のあるものほど、本当は消したくないの。消されたら困る。
でも、我を消すためだったら、それを消さないとダメ。本当の本心の自分に戻るために、
一大循環の流れを妨げないためにというのだったら、その価値のあるものも、神さまに捧げて消してもらわないといけない。
消えないと、循環の邪魔を大きくしていることになる。


(平成25年7月27日のお話 第1部@)