真のありがとうございます 

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 天照大御神様の定義の仕方が、虚の世界の天照大御神様の定義と本物とは違う。
虚の世界の天照大御神様は、古事記に書かれているように、イザナギ、イザナミの神さまの両親から生まれてくる神さま。
プラスの側の神さま。でも、それは虚の世界の天照大御神。本物は全然違う。本物は、もっともっと無限に無限に偉大な神さま。
末端の一個のこの天照大御神様でも、虚の世界の天照大御神様の無限倍、無限倍。

最初に、天照大御神様、今ここに在します。新たなる全徳の無限の無限の輝きが無限に無限に一杯、
この意味がありがとうございますだというふうに説明して、ありがとうございますのお祈りに入ってきた。
最初は、みんなまだ、過去を掴む思いの心で唱えている。思いの心というのは、過去を掴んで止めている。止めた形で唱える。
循環で唱えているのと違う。過去を止めて、天照大御神様という光源として掴むのでも、止めた形の天照大御神様。
ちょうど太陽のように光源としての天照大御神様という感覚で捉えている。それは、まだまだ掴む練習をしているお祈り。
いくらプラスに最高に受けても、止めて受けているお祈り。これは、本心のするお祈りではない。まだ業想念の心。
我の心、思いの心でするお祈りになる。求める心、神さまを求める心、神さまのプラスを受ける心、これはまだ本心ではない。

本心の自分は、与え尽くすお祈り。これは、無限のスピードで循環するすがたをとらないと、与える生き方ではない。
それで、真の神さまは一大循環の相象(すがた)で厳然と今ここに在します、という本心のためのお祈りに切り替えてきた。
だから、みんなが思いの心から本心側へ立場を移し始めた。それはもう、与える側の心になってきたから。
求める心、受ける心だったら、まだそれできない。与える心に置き換わってきたから、本心側に立ちやすくなった。

本心側の自分にとってのお祈りは、真の神さまを一大循環の相象で捉えないとダメ。この一大循環の相象の中に、入れ子構造の無限の無限の天照大御神が無限のスピードで循環している。光源が循環する。光の循環ではない。光源の循環が、一大循環の相象。光の循環は、1個の天照大御神様の中の循環。1個の天照大御神様の中が光の循環。真実の世界は、真の神さまの中の相象は、一大循環でも光源の循環。全然違う。

同じ天照大御神様でも、入れ子構造的な大きい天照大御神様から末端の小さい1個の天照大御神様、色々ある。真の天照大御神様は、入れ子構造の一番大きい天照大御神様。でもまだ、真の神さまとは違う。まだ小さい。

真の神さまは、他にまだ自由自在心の全てを中に持って、一大循環の相象をそれぞれに、みんなに与え続ける相象をとって、
それを全部束ねないとダメ。なおかつ、絶対の中心を中に持っているのが、真の神さま。
入れ子構造の天照大御神様は、絶対の中心から循環して出てきている相象。絶対の中心をまだ指していない。
そこに、言葉の定義だけでも、もう本当は言葉では説明しきれない、神さまの偉大さをものすごく感じる。

だから、天照というのは、天(あま)というのは、完璧な全大宇宙という意味。
その完璧な全大宇宙の光源としての天照大御神様が、照る、照らす、自ら照り輝きながら他を照らす働きをする。両方する。
自ら輝く、照り輝く。これが自然な姿。なおかつ、他を照らす働きをしないとダメ。それが支え合いになる。
全体へ真の神さまを与え尽くす、照らす働きをする。それでまた、全体から自分を照らしてもらう。照らすから照らされる。
それで、大きい力をもらう。無限倍の力をいつも支えとしてもらう。それがずーっと連続して、永遠に続く。

でも、自由自在心の自分は、その天照大御神様のどれも掴まない。全体を自分の中を通過させるだけ。
掴んだら小さくなる。掴まないで循環させて、その循環を眺めるだけが本当の自由自在心の自分。
これが真の神さまを常に感じ取る、真の神さまと一体の悟った自分。掴んだら小さくなる。
いくら一大循環の相象を掴んだと言っても、掴んだ途端、一瞬掴んだだけの相象。
永遠に、無限のスピードで循環する相象は、把握できなくなる。

だから、絶対に掴まない自分がいい。無色透明の自由自在心。一切の我の無い無色透明の自由自在心。
一瞬でも掴んだら、我がそこに生まれる。一切掴まないというのが、我の無い自分。これを目指す。
掴むというのがなくなったら、虚の世界は消える。



(平成25年7月13日のお話 第2部)