真のありがとうございます 

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 本心の自分がどこにいるかというのが一番大事。みんな、本心の自分が自分。無色透明の自由自在心。
形を掴んだのが、我の自分。これは偽物。我の自分は、色んな掴み方で、これが自分って過去に掴んできたとしたら、
無限にあるかもしれない。いちいちこれが自分って言っていたら、気が遠くなってしまう。気違いになってしまう。
本当の自分は自由自在心だけ。形を掴んでない自分。形を掴んでない無色透明の自分だから、真の神さまの全体を把握できる。
波が一番細かい、微振動というより、波がないから、神さまそのものを直接把握できる。波のないものを把握する。   

波の世界も、波が合わないと、全然わからない。この世に色んな霊能者がいる。
霊能者がちょっと波を合わして、あの世のすがたを感じたって、その人の心の波に合うものしかわからない。
だから、言うことが全部違う。低い世界のことを言う人は、低い波に合っているだけの話。高い世界に合うのは難しい。
高い世界でも、ちょっと波が合った世界しかわからない。その全ての波の世界を感じるのは、本心の自分に戻るしかない。
本当の自分に戻って、全体を大きく見ないとダメ。大きい自分ほど、全部中に収まる。全部自分の中に収めて、初めてわかる。
外にあるのは、自分が小さくなっているから、わからない。

自分がテレビの受像機をやっている間はダメ。どんな波をキャッチしても、一つの波しかそこに映っていない。
同時にいくつかの波を映したとしたら、画面が乱れている。だから、テレビの受像機に映るすがたなんて、どっちでもいいこと。
この世のすがたなんて、どちらでもいいようなもの。あの世の全部の波を同時にキャッチして現わしたら、この世なんか無茶苦茶。
画面が乱れている。そのぐらいの感覚が正しい。

あの世の低い波を全部、大きく浄めようと思ったら、この世の画像が乱れる。それでも大きくあの世の波が消える。
でも、この世の受像機だけをいいようにしようと思ったら、高い世界に波を合わしていたらいいけど、低い世界の波なんか消せない。
だから、本当はこの世を相手にしないのがいい。それでお祈りだけになる。

真祈りというのは、本心の自分のするお祈り。我の自分のするお祈りは、真祈りにならない。本心の自分がするから真祈り。
本心の自分は、与え尽すだけだから、真の神さまを与えるお祈り、真祈りになる。

だから、ありがとうございますの一言。ありがとうございますの一言が、真の神さまを表す言葉で、真の神さまを与える祈り。
それが真祈り。一番最初に自分をどこに置くか。真の自分って、まず言葉で定めないと、その立場に立たないと、
虚の世界の一部すらわからない。虚の世界の全体を把握できても、たいしたことはない。そんなことは、どちらでもいいような話。
虚の世界はないと断定するくらいが正しい。だから、一大循環の相象がどれほど大きいものか、虚の世界のこの一部を見ても、
この世の波の一部だけでも全大宇宙と言ったら、入れ子構造的に広がる。もう計り知れない大きさ。この世だけでもそう。

あの世も同じ。あの世の波全部、全大宇宙が備わっている。あの世だから、物質や体がないのかというと、違う。全部ある。
あの世の色んな波全部に体もある、物もある。全部備わっている。ただ波の違いがあるだけ。魂だから何もないのかというと、違う。
高い世界ほど実体がある。虚の世界でもそう。高い世界ほど、真実の世界の一部が映ってくるから、実体がはっきりする。
低い波、マイナスの世界ほど、実体がない。本当に言葉だけの錯覚になる。

仏界ぐらいになったら、実体がある。本当の中身が濃い。同じこの体でも、物でも全部そう。
何もない、架空のものではない。神さまの世界のすがたを映しているから中身がある。実体がある。
でも、地獄なんかは何もない。本当に言葉だけの錯覚。低い世界ほど、光が無くなっている世界だから、本当の言葉だけの錯覚の世界。

だから、この虚の世界をどういう風に捉えて大きく感じ取るか。それをはっきりわかって初めて、
真実の世界が無限に無限に素晴らしいというのがよくわかる。真実の世界は、虚の世界の無限倍の更に無限倍。
その勉強のためには、やっぱり虚の世界をしっかりと勉強するというのは必要。

科学者や哲学者は、頭を悩ます。色んな仮説を立てては、また間違っているかなと考えて、
また新しい仮説を立てて、仮説を立て続ける。そして、真実に迫ろうとするのだけど、でも、これは我の心の思いの心では何もわからない。
やっぱりわかるのは、本心の自分。真の神さまが真の自分っていう、本心の自分に戻らない限り、真実も虚の世界の成り立ちも、全然把握できない。
だから、ありがとうございますを本心の自分として祈り続けるということが、一番大事なこと。理屈よりも祈ること。
祈りの実行が、やっぱり一番大事になってくる。一回一回が一番大事な祈り。それも真の神さまを与えるという祈り。
これが本心の自分のする祈り。与える心の自分が祈るから、真祈りになる。



(平成25年7月13日のお話 第1部A)