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 虚の世界は無い、ということが根本にある。でも、無いのにあるように思う。虚の世界は、言葉通り。
虚の世界の時間・空間というのも、虚の世界は無いのだから、時間も空間も無い。
経験・体験の連続を時間に広げて見るのも無いのだし、空間という広がりで止めて見るのも無い。
元々無いものをあるかのように言葉で錯覚している。

真実の世界はそうではない。無限のスピードで、一大循環の相象(すがた)をとってるとしたら、時間も空間も無い
そんなレベルではないから。だから真実の世界でないのは、虚の世界。虚の世界いうのは、残像の世界
一瞬掴んだ錯覚した世界が虚の世界だから、本当に何もない世界。それをあるかのごとく思うのは、言葉だけで思っているだけ。

それでまず、ウサギとカメの話だけど、これも言葉でどう定めるか。
ウサギとカメの関係でも、まずウサギがいる、カメがいるというのも言葉の錯覚。
ウサギが走ったらカメより速いというのも、これも錯覚。ウサギがカメに追いつくというのでも、現実にそういうすがたはない。
ウサギがカメを追いかけているのを見たことがある?ないよ。これは、あくまでも言葉の仮定。仮説。勝手に決めただけの話。
そしたら、どちらがスピードが速いかというのも、カメは海の中で泳いだら速い。ウサギなんか溺れてしまう。
ウサギが速いというのは、あくまでも仮説。

追いかけっこをしたと仮に仮定しても、一直線に、真っ直ぐ行くとは限らない。ウサギは、真っ直ぐ追いかけるかもしれない。
カメは、横に逃げるかもしれない。カメというのは、竜宮城のお使いみたいなものだから、神通力があるかもしれないし、
自由自在かもしれない。亀は万年というから、永遠の生命の象徴かもしれない。
神さまの世界に住んでいるカメだったら自由自在で、どんな力も発揮するかもしれない。
ウサギは、怠けもので、競争しても途中で昼寝して、ゴールに到達できないとか、みんな言葉だけ。
言葉で仮定しているだけ。それでどうなるかって、言葉の錯覚を感じて喜んでいるくらい。

虚の世界は、自由自在にどんな言葉でも使って、どんな風にも感じられる。これが根本。
虚の世界は、全て言葉通りに創造して、それを感じている。あるかのごとく錯覚する。
だから、時間も空間も無いのに、あるかのごとく錯覚している。

おそばを沢山食べる競争がある。たまに、一人で百人分食べる人がいる。
おそばがどこに入るの?胃袋は、10杯入ったらもう満腹。あれだけ食べてどうやって入るの?押し潰しているの?圧縮して?
これもやっぱり言葉通り、錯覚。

また供養すると、お供えしたものが全部、味が全部抜けてしまうでしょ?
あの世の人が降りてきて食べるからだと言うけど、あの世の人が食べているのを見たことがある?
でも、言葉であの世の人が降りてきて食べたというと、味が全部抜けてしまう。食べたら、ガスガスで、味なんか何もない。

でも、神棚にお供えしたら、美味しくなって戻ってくる。神さまが光を添えてくれたって、言葉でそういう風に定める。
神さまの光が入ると、美味しくなる。言葉通りに美味しい。光を添えてもらったら美味しくなっている。これも言葉だけ。


(平成25年7月6日のお話@)