真のありがとうございます 

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 本当の目的は、神さまの与えてくる一大循環の相象(すがた)を正しく受けて、味わうこと。それが一番の幸せだから
一大循環の相象いうのは、入れ子構造の一番奥からだから、どれだけ無限に無限にさらに無限に素晴らしいか。
真の神さまの一大循環の相象を少しでも、ちょっと片鱗でも感じられたら、もう虚の世界なんか相手にしない。
そんなつまらない虚の世界は、鏡に映す世界と同じ。

虚の世界は、思いのすがたを影絵や走馬灯のように映すだけの世界。それも一つの立場の座標軸から見たすがた。
でも、神さまの光の表現は全方向からだから、光の方を受けようと思ったら、どんな影絵も走馬灯も消える。
影なんか絶対に出てこない。全方向から光が来たらそう。一方向からだと、まだ、影絵が生まれる。
それで、どういうお祈りが一番大事かというのが本当の狙いだけど、自分一人するお祈りは、一方向のお祈り。
みんなと支え合ってするお祈りは、全方向からのお祈りになる。

闇を、影を消すお祈りは何か。虚の世界をさっと消すお祈りは何か。全方向からのお祈り。
みんなで力を合わせて支え合ってするお祈り。そしたら、虚の世界は、すぐに消える。一大循環の光の世界だけを感じる自分に変わる。
鏡に映すすがたも、影絵として投影するすがたも、本当はいらない。あまりにも小さい、つまらない。
本当の光の万華鏡がいい。それでお祈りが必要。真祈りは、みんなと支え合って祈る祈り。無限倍の相乗効果を起こす祈り。
だから、自分が一回祈ったら、無限の無限のありがとうございますに変化する祈り。

本当の本心の自分は、無色透明、自由自在な自分は、常に真祈りを祈っている自分。
ありがとうございますを祈るのが、真祈りになる。無限の無限のありがとうございますになる。
与える時は、無限の無限の自由自在心の全てに、真の神さまを与え続けている。

だから、ありがとうございますが、無限の無限のありがとうございますに変化して、
一人ひとりに全部的確に真の神さまを与え尽していく。受ける時はまた、全体から、真の神さまが自分に流れ込んでくる。
真の神さまの全てを、入れ子構造的な全てを与えてもらう。自分の中を貫流する、流れる。
そしたら、自由自在な自分って、どれだけ幸せか。真祈りを祈れる自分がどれだけ幸せか。一番幸せ。
真祈りを祈れる自分は、最高の幸せな自分になる。

だから、命を懸けて祈る価値がある。無限の価値がある。他は何もしなくてもいいぐらい。極端に言ったらそう。
真祈りだけを命懸けてするのが正しい。虚の世界のつまらない影絵の世界で、蠢いたって意味がない。
この世なんて、本当に影絵の世界で動いているだけのすがた。本当は影絵にも、無限の無限の光を与えて消さないといけない。
虚の世界を全部消すのが、本当の自分の役目。真の神さまを与え尽して、真の神さまだけにしてしまうのが、真の自分の幸せな生き方。

真祈りを祈れる自分が、真の自分。その自分だけでいい。他の言葉で、これが自分って掴む必要がない。
つまらない掴み方をした自分だけが、我の自分。我の自分は、過去に無限にあってもいい。色んな我の自分が、沢山あるかもしれない。
それは、もう無関係。今の自分が、自由自在な本心の自分として、真の神さまを与え尽す真祈りが出来たら、もう過去は一瞬に消えて無い。
消えて無いというより、元から無かったという風になる。真の神さまだけが全て。虚なんか元から無い。存在していない。
虚があるのと違う。真の神さまを忘れたから、虚があるように錯覚しただけ。

 いかに虚の世界は錯覚だけか。根本から錯覚だけ。現実に色々見ているのも、全部錯覚ばっかり。
何もないのをあるかの如く、言葉通りに錯覚して感じているだけ。何もかも全部錯覚。錯覚も、入れ子構造の錯覚。
錯覚に錯覚を積み重ねているという感覚。だから、虚の世界には、正しいことなんて何もない。元々何もない。
虚の世界は何もない。真の神さまのすがただけ。愛のすがただけ。真のプラスだけ。そしたら、お祈りがしやすくなる。
現実を素晴らしいものと思いこむのが間違い。神さまの世界が素晴らしい。

だから、真の神さまだけを相手にする。それも入れ子構造の、本当の一大循環の相象を相手にする。
無限のスピードで本当に流れている本物を相手にする。止めて見る虚の世界ではない。
みんな虚の世界でも、止めて見ないと、何もわからない。全部一度止めて、色々考えてみているけど、それですら錯覚ばっかり。
少しスピードを上げると、もう何もわからない。捉えどころが何にもない。

止めて見る思いの心では、何にも感じない。スピードが上がったら、何も見えない。わからなくなる。
でも、本心の自由自在心は全部わかる。無色透明の自由自在心は、全ての流れ、動きが感じ取れる自分。
だから、どの自分をしっかりと定めるか。ありがとうございますを唱え続けて本心の自分に戻るか、
つまらない言葉で我の自分に陥るか。我の自分ではわからない。本心の自分の自覚に戻ったら、全部わかる。
それで、どちらを選ぶかだけなの。

順番に階段を上るように上っていくのでは、ダメ。本当に、どちらを選ぶかだけ。
真の神さまを選ぶか、虚の世界のつまらないすがたを選ぶか、二つに一つ。
虚の世界を順番に階段を駆け上るように上がっても到達はできない。虚の世界には、本物はないから。
真の神さまをしっかりと捉えて感じ取れた時に、虚の世界がないというのに気付くだけだから、虚の世界でどんな動きをしても無駄。

それで、真のありがとうございます、真祈りが必要になる。ただひたすら、ありがとうございます。
本心の自分に戻ればいいだけ。錯覚から抜ける道。夢・幻・錯覚。本当にそう、虚の世界はそう。
真の神さまだけが真実。一大循環の愛の相象だけが真実。それを感じ取るために、真祈り、ありがとうございますを唱え続けるだけ。
本当に真祈りを唱え続けたら、その自覚が蘇ってくる。だから、他は何も必要ない、いらない。


(平成25年6月29日のお話 第1部A)