真のありがとうございます 

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 真の自分、これは一切我のない無色透明の自由自在心。形を何も掴まない。これがまず根本。本当の自由自在。
どこへ行っても自由。どの立場に立っても自在。自分が何かを見ようとするときに、どこへ行って立つか。一人一人全部違う。
同じ立場に立ってない。立場も場所も全部違う。次に、見る時は一人一人、座標軸を定める。座標軸を自分が定める。ここが中心って。
縦と横を定めたり、縦横高さの3次元で定めたり、もっと他にも色々定める。

相似形のすがたを取る時に、どこを中心にして相似形を広げるか。虚の世界と真実の世界は正反対。
真実の世界は、大きい方から小さくなって、出てくる世界。虚の世界は、反対に、小さい所から大きく広がる。
虚の世界は、無。無を広げている。真実の世界は無限大を小さく絞り込んで循環させる。これも正反対。
虚の世界で色々眺めている時に、本当に色々な錯覚ばっかり。見ていることが正しいとは言えない。何も正しいと言えない。
だからAという人と、Bという人、Cという人がいて、一つの物を同じようには絶対見えない。
みんな違う座標軸を定めているから、色んな鏡に映すにしても、どういう反転の仕方をさせているか、みんな違う。
鏡も、平面の鏡ばかりではない。凹面鏡も、凸面鏡もある。色んな鏡があったら、色んな歪み方をする。

だから、自分の五感、五感の感覚で見ているすがたが、そのままあるのではない。錯覚で見ている。
色んな種類の錯覚が沢山ある。鏡のすがたを見てする錯覚もあるけど、他にもいろんな錯覚がある。
本当に正しく見えているかどうかって、見えてない。色んな見方をするのは、まず言葉が中心になって、言葉通りに見ている。

普通のレンズを通して見るのでも、板ガラスを通すのと、凸レンズを通すのと、凹レンズを通すのと、また見え方が違う。
その鏡とかレンズを、誰が作るか。物質的なものがあるのではない。一人ひとりの心で、言葉で作っている。
どういう鏡を作るかも、どういうレンズを作るかも、そう。自分の決めた鏡に映す、自分のレンズを通して見る。
自由自在な自分が全部する。そしたら、一人一人全部、話が合わない。実際みんな合ってない。
本当に勘違いばっかり、すれ違いばっかり。ただ自分の言葉通りに成っているというのは、確か。

立ち向かうすがたは、自分の心を映すという。立ち向かう人のすがたは鏡なり、己が心を映してや見ん。
もし、自分のすがたを鏡に映すときに、逆立ちする人は、映り方が違う。左右に振り返る人は、反対に見る。
もし自分が、手を挙げているとすると、鏡に映したすがたは正反対に見える。横回転の左右に反転させたら、自分が手を挙げて人を殴る側。
こっちにいる人は、他人。殴られる側とする。右手が殴る側、左が殴られる側としたら、鏡に映したすがたは正反対になっている。
現実に、自分が殴られる側になったとすると、実際は自分が殴る側。自分が殴っている。
鏡に映ったすがたには殴られたすがたがある。自分だと錯覚する。現実全部、鏡に映すすがたとして見ている人だったら、
みんな正反対に言っている。多分、みんな逆立ちしていないから。左右を振り替えている。
実際、鏡で見てもそうだけど、左右に振り替えて見ようとしている。実際は、振り替えてない。
ぴたっとつけたらよくわかる。殴る側はピタッと殴る側もピタッとしている。右手が向こうにいっているのではない。
でも自分は、うまく自分に都合のいいように、言葉で心で、翻訳してしまっている。言葉で、思いで、左右を変化させたように思い込んでいる。

そしたら、周りの人を見る時に、他人と見るのはおかしい。周りが全部自分。周りが全部自分で、自分が他人。極端に言ったらそう。
小さく見たら、隣の人が自分で、自分が他人だけど、大きく見たら、自分が見ている世界全部が自分で、自分が他人。
そしたら、自分の見ている世界全部、自分のすがたをそのまま現わしている。だから、みんな人のせいに出来ない。
自分のすがたを見せてくれて、反省させてくれているという風に見る方が正しい。これも一つの見方。

色眼鏡、眼鏡を通して見る時も、何が見えるか。自分が一つの立場を変えてくる。立つ場所を全部自由に変えるから、
どの立場に自分を置くかによって見え方がまた全部変わる。自由自在な意識は、自分を、自分の意識を、立場を、どこへでも自分を置ける。

だから、色んな自由自在な立場へ置けた方が本当はいい。同時に色んな立場に立てたら、本当は錯覚が無くなる。
一番正しい見方は、神さまの立場。神さまは全方向の全ての立場に立てる。
与えるための、座標軸を決めるのだったら、一つの座標軸の中心から全部、螺旋状に放射して与えてくる。
それで全方向からというと、球体があったら、球体の全部。全部から座標軸を定めて、無限の座標軸を定めて、
全部天照大御神様というすがたで、与え尽してくる。それも螺旋構造で。直線だと、単調なすがただけど、
螺旋というと、すごい組み合わせ。一点に集中するにしても、奥深くなる。

この世は、模型の模型の世界だから、直線は、点の無限の集まりということになる。
面だと直線の無限の集まり。空間になったら、平面の無限の集まり。3次元で終わりではない。更に入れ子構造になってくる。
4次元、5次元って。同じ3次元の空間が、相似形のすがたで広がるというのもあるけど、それはまだ3次元。
入れ子構造になると、4次元5次元にずっと広がる。

 真の神さまから、自分が何を受けるかというのでも、受け方でも、自分の座標軸の立つ場を決めて、
どういう次元の座標軸を定めて受け取るか。3次元の座標軸だったら、3次元のしか受け取れない。
もし、2次元の平面で受けるのだったら、平面の受け方しかできない。直線だったら、直線だけ。
でも、前だけ一生懸命見ている人は、直線的な受け方。例えて言ったら、ちょっと横広がりに見たら、平面的な受け方。
3次元的な受け方というのは、かなり高度。それでもまだ、この世的な受け方。
空間でもあの世はまだもっと上だから、伸び縮みする空間とか、いろいろある。

次元が変わるほど、もっともっと自由な受け方。それでも一つの座標軸を決めて、一つの立場からの受け方。
それが、立場が沢山になるほどいい。だから、他の人の立場も取り込まないとダメ。
自分一人の立場ではなく、大勢の人の立場、座標軸を自分の物にする方がいい。

真の神さまは、与える時も、受ける時も、全部の立場を持っている。鏡でも、一人の立場の鏡は単調だけど、
色んな鏡を組み合わせたらどうなると思う?鏡の中に鏡が映って、その鏡の中に他の鏡が映ってって、もう頭が無茶苦茶になる。
鏡ですら、そう。万華鏡というのが、三面を鏡にして、中に千代紙みたいなものを放り込んで回転させただけで、
ものすごくきれいに見える。三面ですらそう。それを色んな鏡を組み合わせたら、どう見えるか。

それ以上に本物の世界は、鏡ではない。本当の光の輝き。光の組み合わせ。螺旋で動く光の組み合わせって、
もうすごい組み合わせになる。一個の末端の天照大御神様の光の表現ですら、無限に無限に変化に富んだ、素晴らしいもの。
一方向から来てもそう。それが全方向から来たら、その組み合わせってすごい。もう言葉で表現できない。想像を絶する。
本当の光の表現は、素晴らしい。それが更に入れ子構造に奥が深くなると、次元が変わってくる。
本当の次元の変化が、大きく変化していく。


(平成25年6月29日のお話 第1部@)