真のありがとうございます 

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この世があの世の縮図というすがたで、光のパイプとして、あの世のものをこの世を通して、
神さまの世界に送り返して消すと言っても、お祈りができる人でないと出来ない。
本当のお祈りをしてこそ、送り返して、神さまの中へ戻して消せるけど、虚の世界の中だけでは、いくら循環しても溜まる一方。
それで、本当のお祈りがいる。真祈りが必要になる。

 真祈りは、虚のマイナスが消せる。消す力があるから、神さまの世界に戻して、マイナスを消したことになる。
本当は、真祈りで祈って消す働きの場が、神さまの世界。具体的に、この空間があって、虚の世界があって、この世があって、
こういう漏斗状に循環しているというのだけれど、これは、形を掴んで止めて、イメージして掴んでいるだけの形。
自由自在な祈りのすがたを、形に現わせると思う?出来ない。難しい。

でも、本当の真祈りの働きを形に現わしたら、そういう風にもイメージできるっていうだけ。実際、こういう形ではない。
もっとお祈りは自由自在で、働きが無限に変化する働きだから、一定の形はない。色んな形で虚の世界を消してしまう。

真祈りとは何か。真祈りのありがとうございますは、真の神さまの祈り。真の自分の祈り。これが一番大事なこと。
過去を掴んで、思いを溜めた業想念の心の自分の祈りではない。真の神さまの祈り。真の自分の祈り。
これがどういう祈りかというと、虚の世界に与える祈りと違う。一切の我のない無色透明の自由自在心のみんなに。
真の神さまと一体の元から悟っている一人ひとりに対して。そういう人に、何を与えるか。真の神さまを与え続ける。
真の神さまは、真のプラスだけ。真のプラスだけ、一大循環の相象(すがた)だけ。真の神さまを与え続けるお祈りが、真祈り。
マイナスを持っている人に、何かを与えるのではない。元々の自由自在心のみんなに、真の神さまだけを与え続けるお祈り。

具体的に幾つか箇条書きにして挙げると、真の真祈りのありがとうございますはどういうものか。
まず一つ、常に、一瞬一瞬、新たな新たな祈り。過去は無関係。真祈りという限りは、一瞬一瞬新たな祈り。
過去は全然、無関係。絶対の中心から降り注ぐ、新たな新たな祈り。
二番目は、絶対の中心から舞い降りる祈りだから、無限に無限に輝いた、本当に顕著な、光の顕著な新たかな祈り。
無限に無限に輝いた新かな祈り。
三つ目は、全てを与え尽くさないとダメ。残さない。必要なところに与え尽くす。余った分は絶対の中心に戻す働き。
必要なところに戻してしまう。だから、全てを与え尽くさないとダメ。絶対に残さない。
残したら止まるから、循環を止めるから、常に全てを与え尽す祈り。

四つ目は、今与えても、次の一瞬休んだら与えてない。だから、連続して与えていないとダメ。与え続ける祈り。
常に与え続ける。ありがとうございますって、真の神さまを与え続ける祈り。
五つ目は、隙間があったらダメ。どういう隙間があってもダメ。循環を正しくするために連続させないとダメ。
常に連続した祈り、隙間のない、連続した祈り。
六つ目、一大循環の流れは、無限のスピードだけど、有限の数値ではない。無限のスピードは、どこまでも加速できる。
遅くもできるけど、速くもできる。どこまでも加速できる。だから、真祈りは、加速する祈り。一大循環の流れを加速する祈り。

 それら全部をかなえようと思ったら、自分一人で出来ることと違う。いくら自分が、無色透明の自由自在心だといって、
全体に自分の全てを与え尽くしてと言っても、一人では出来ない。神さまの中には、そういう真の自分が無限にあるの。
だからみんなが同じようにして支えてくれる祈り。みんなで支え合う祈り。これが七つ目。
それで本当の神さまの働きのすがたをとる。

ありがとうございます、真のありがとうございますは、今言った七つ全部を備えている祈り。
その祈りを祈れないと、真祈りではない。その祈りを祈れたら、虚の世界が自然にスーッと消えるというよりも、
真実の世界そのままだから、虚の世界が無い。虚の世界を消すのではない。真実の世界の自覚に戻るだけ。
元から虚の世界があるのではない。ただ真実の世界の自覚を失ったから、虚。だから、光に気付いたら闇はない。
一大循環の相象に気付いたら、虚の世界はもうない。そういう自覚を戻すため。

真祈りを祈ると自覚が戻るから本当の自分に戻る。祈りを忘れたら、また自覚が失われる。
また虚の世界の自分に、思いの自分に転落する。だから、祈り続けるということが大事。自分は常に祈り続けないとダメ。
自分一人の祈りだったら、途切れる可能性もあるから、みんなと共に祈る。みんなのために祈る。これが大事。
支え合う祈りで絶対、循環が止まらないようになる。そしたら、祈っている自分は悟った自分に戻って行く。
またその時は、みんなも悟っている。だから、自分も他人もない。真の神さまだけという本当の悟りの自覚になる。
ありがとうございますは、真の悟りの自覚。

どういう心で、ありがとうございますを唱え続けたら、一番最短コースで本心の自分に戻るか?
これは常に、新たな与え尽くす心で祈らないとダメ。本心の生き方と反対になったらダメ。新たな生き方と与え尽くす生き方。
それが出来たら、本当の支え合う心で祈り続けて本心の自分に戻っていける。
だからもう、空間的に捉えた時は、止めているから虚の捉え方。止めて見る見方は、本当の模型の模型の、もう一つ小さい模型になってしまう。
でも、それもやっぱり最初は必要。最初から本物がわかるわけではないから。
虚の世界に転落したら、一回虚の世界の色んな模型を使いながら、本物へ心を向けて行かないと、それは出来ない。
本物の地球を知るためには、地球儀がいる。色んな種類の地図がいる。それも全体の地図がいる。
それでも、地図と地球儀、これは本物とは違う。本物を知るためには、
その本物を自分の中におさめるだけの大きな自分に戻らないとダメ。
それも無色透明の自分に戻ってこそ、本当の無限のスピードで循環する地球を捉えられる。

真の神さまは、常に無限のスピードの循環する流動体。本当の意味は完璧な流動体。止めたものの完璧さは、
虚の世界の完璧さ。無限のスピードで流動するのが、本当の神さまの世界の完璧さ。だから常に、完璧な神さまを捉え続ける。
これが一番幸せ。だから、真祈りの必要性、大切さを自分が真剣に求めないと出てこない。虚の世界で満足していたら出来ない。
だから、本当の自分探し。本当の幸せ探し。本当の心の安らぎを求める人にしか出来ない。
虚の世界を掴んでいるようだったら、本当の安らぎはない。特に、小さいものを掴んだら、余計そう。
虚の世界は、無から生まれて無に戻るだけのすがただから、この世に精神統一とか精神集中という言葉があるけど、
思いの心の精神統一とか精神集中は、一点に向かう。でも、本心の方は正反対。真の神さまへ向かう。本物に向かうから、無限大へ向かう。
一点ではない。無限大へ、外へ向かう。同じ精神集中、精神統一と言っても、正反対の解釈になる。本物の悟りは大きい。
虚の偽の悟りは無。これが間違う。だから、空と無の違い。空は無限大。全部中にあるという言葉。無はゼロ、一点。

同じ悟りを求めても、両方があるから、本物を目指さないとダメ。常に、全体を見るというのは大事。
日常生活でも大事なことは、周り全体を見ること。どんなことしている時も、一つの仕事にのめりこんだら、周りが見えない。
思いの心にとったら、それもいいと言うのだけど、一点集中して、集中して何でもこなせると言うのだけど、それは思いの心の生き方。
本心を目指す人は反対。周りを全部、眺めて観察しないとダメ。全体を見ながら仕事をしないと。これが本当の本心の生き方。
本当の武道の達人でもそう。本当に強い人は、全体を見ている。後ろまで見ている。全体を大きく見ている。遠くまで見ている。
11で前だけ見ている人は弱い。だから本心と業想念の思いの心の生き方の違い。本物をいつも目指す。
本心の自分に戻るために本物を目指さないと。


(平成25年6月22日のお話 第1部A)