真のありがとうございます 

新・勉強会のお話」に戻る

 

 自分が一番いいものと思っているものに、執着する。これが最高、素晴らしいって。まず、ここへ執着する。
自分にとって必要のない、いらないものには執着しない。自分が最高と思うものに執着している。
この執着を取るのは、自分が、これが一番大事、最高というものを捨てないとダメ。これが難しい。
一番大事なものを捨てないとダメ。執着を捨てるというのはそう。でもそれは、捨てないと本物にならない。

掴んでいるのは、掴んだという思いだけ。本当は、流れを掴むことはできない。絶対掴めないもの。
ただ掴んだと思った、思いが残る。一瞬一瞬、見つめてみたらよくわかる。今掴んでいるものが、ずーっと続いているのではない。
一瞬一瞬、変化しているのに、一回掴んだものを、まだ思いとして掴んでいるだけ。変化したのもわからずに、掴んでいるだけ。

捨てるというのは、この思いを捨てる。一番大事なものを、掴んでいるその思いを捨てる、消してもらう。
どこへ捨てたらいいか?消してもらうところへ捨てないとダメだから、どこへでも捨てたらいいのと違う。消えないから。
神さまの方へ向けないと、神さまに預けるというすがたを取らないと消えない。神さまに預けたら消えていく。思いが消されていく。

自分にとって一番大事な事というのは、循環を邪魔しない自分。循環を助ける自分、加速していく自分というのは、お祈りできる自分。
それも、真の神さまを与え続ける、真祈りを祈れる自分、この自分だけ。これは無色透明の自由自在心。形ではない。絶対形ではない。
掴んだ形は、一瞬一瞬変化している。今掴んだものは、次の瞬間また別人に変わっている。形だったら別人に変わるから、自分ではない。
変わらない自分が、無色透明の自由自在の自分。これは、永遠に変わらない自分。

だから、何でも眺めることもできるし、掴むこともできる。大きく掴んでも、小さく掴んでも、全体を眺めても、自由自在。
ただ、掴んだら捉われていくだけ。流れを遅くしていく。虚の世界に転落する。
掴まない自分が大事だから、祈り続ける、与え続ける自分。祈るというのは、与えることだから、
真の神さまを与え続ける自分でないと、循環を助ける自分ではない。どうしても執着して掴んでしまう。


(平成25年6月15日のお話 第1部A)