真のありがとうございます 

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 菩薩という言葉は、菩提薩捶(ぼだいさった)の略。菩提というのが、真の悟り。
真実の悟り、最高の悟り、本物の悟り、これが菩提。悟りへの道を歩むもの、これ菩提薩捶、菩薩。
真実の悟り、自分一人悟ったいうのは偽物。みんなが悟らないとダメ。
だから、自分一人だけ悟ろうという生き方は、間違っている。小さい菩薩行かもしれないけど、本当の菩薩行にはならない。
菩薩行にも本物と偽物があり、小さい大きいがある。段階が色々ある。

本当の菩薩行は、みんなを悟らせる生き方。それも真実の悟りを与える生き方、これを実践するのが菩薩。
だから、与え尽くす、報いを求めず与え尽くすにしても、悟りへの道を歩ませる与え方。
真の悟りと関係ないことは、与えても大したことがない。真の悟りへの道を歩ませる与え方、これが本当の悟りへの道。
それで、菩薩行と言える。いくら必要なものを与えても、例えば、お腹すいている人にご飯を与えても、悟りとはあまり関係ない。
いくら報い求めず与えていても、まだ菩薩行とは言えない。真の悟りへの道と違う。真の悟りを根本に置かないと。そのために何が必要か?

この世で生活をさせてもらって、色んな物を必要性を感じて持っていると思うけど、
本当に悟りを開くために必要な物は何かと考えたら、ほとんど何もいらない。
生きていく上で必要と言いながら、本当に生きるため、悟りを開くために必要かって考えたら、
家なんかいらないし、服も着た切りすずめでもいいし、食べ物も質素なものでいいし、本当は必要な物は何もない。
何も願わなくても、何もいらないと言っていても、もう全部与えてもらっている。
太陽があり、空気があり、水があり、もう必要な物は全部、与えてもらっている。
そしたら、自分から何も願う必要がない。必要な物は先に全部用意されている。逆に、多すぎる。

神さまは、一生懸命光の循環をよくして速くして、悟りへの道を加速しようとしているけど、
色んなものがありすぎて邪魔になっている。循環を止めているものが一杯ある。
これが自分にとって必要、大事というのは、執着している。執着心が、止める働きをしている。
本当に何もいらない、何もなくてもいいというくらいの気持ちが必要。それで、新たに受け直す。必要なものを新たに受け直す。

だから、過去のものは絶対必要ない。新たに受け直すのでも、あまりにも多すぎる。
回転寿司を食べに行くと、一杯回ってくる。あれは、必要な物の何倍あると思う?自分に必要な物は少し。
ご馳走が一杯循環してくるけど、本当に自分に必要な物はわずか。全部食べたらダメ。実際、循環してきている。
新たに新たに、たくさんのものが循環してきている。それを全部もったいない、もったいないと言って、
自分のものにする必要もないし、掴む必要もない。本当に必要なだけを受けて味わえばいい。
後はやっぱり、みんなを悟らせるために、大きい生き方が必要だから、光を循環させないと。
だから、全ての循環してくるものにも光を込めないと。そして、物を介して与えるだけではなく、直接光も与えないと。

それで、最高の与え方、やっぱり、ありがとうございますの真の神さまを、真の神さまの全てを与え続ける。
これは、真の祈り。真祈り。真祈りをし続けないと。それも自分一人ではなく、みんなと一緒に、神さまと一緒にという生き方で。
だから、自分が菩薩の生き方をとったら、自分に波の合う世界は、菩薩の世界。みんな同じ。菩薩行をしている。
やっぱり、自分とそっくりな姿で周りに現れる。だから、自分が菩薩と思っていても、落ちる生き方をとったら、
みんな落ちている姿をとっている。周り全部が、同じようになる。

同じ菩薩でも上へ昇っていく本当の悟りへの道を歩むのと、下へ落ちるのと両方あるね。
今菩薩という心境でも、落ちる人は、やっぱり、現実を、過去を掴んでいる。マイナスに見ている。何かマイナスに見ている。
例えば、病気の人をいじめている人を、救わなければとか、これもマイナスに見ていること。
あの人は、そういう因縁を持っていると言ったら、人のせいにしている。
そしたら、自分が菩薩と言いながら、そこから落ちる生き方を選んでいる。それではダメ。菩薩行にならない。
自分も落ちていくし、人も落ちていく。だから、みんな菩薩として上っていく道を選ばせないとダメ。

だから、自分が上がる生き方をとらないと。常に、神さまのおかげで、100%神さまのおかげで助け続けてもらって、
全部最高のプラスに思い返して受けないと。それで、新たに新たに、最高のプラスの言葉を駆使しないとダメ。
菩薩として上へ上がろうとしたら、みんなを悟らせようとしたらそう。自分は最後でもいいけど、
みんなを悟らせようとしたら、最高のプラスを与え続けるしか方法はない。
だから、本心の自分をしっかり思い返して、本心の自分の心を与え尽くす心で、真のありがとうございますを祈り続けて、
真の神さまを与え続ける。これを実行すること以外、みんなを悟らせて菩薩の道を歩ませる方法はない。

大きい意味で菩薩行をみんなにさせるというのは、真の神さまを与え続けるお祈りを実行する以外、不可能。
小さくだったら色々言えるけど、あの人は菩薩、この人は違うと分けるのだったら色々言えるけど。
みんなを菩薩行に、菩薩として見ようと思ったら、そこはもう、大きい光が循環しないとダメ。
どんなマイナスも万分の一位、億分の一に変えるだけの大きい光が世界全体に要る。

だから、あの世があって、この世があって、この世に本当の菩薩の働きを降ろそうと思ったら、
この世に光を一杯充満させないと、循環させないと。だから、祈りに祈って、大勢の人が祈りに祈らないとダメ。
それで、光を大きく循環させて、どんなマイナスでも万分の一、億分の一位になる。
これはもう、あの世のどんなマイナスが出てきても、必ず万分の一に済ませるというくらいの光が降りたら、
この世全体が菩薩の働きの姿、菩薩界。色んな界があるのではない。この世を菩薩界にしてしまえるかどうか。
この世の全てが、菩薩。例えば、猫だって菩薩。もう全てが菩薩にならないと。そこまで大きい光を注げるかどうか。
これは、本当は、一人では無理。お祈りする人が支え合って、本当に大きい光を流せたら、この世全体を菩薩界にして、
みんなを菩薩に変えていける。そうすると速い。みんなが悟るのが速い。虚の世界が消えて、真実の世界に戻る。

 真のありがとうございますを教えてもらって、祈れる自分、みんなと一緒に祈れる幸せ、もう言葉では表現できないくらい幸せな生き方。
本当の菩薩道、菩薩行。これがもう、心でしっかりと確認して、わかり始めたら、本物の祈り。
祈れば祈るほど、真の神さまが循環する。まず、自分の心境が、本当の与え尽くす愛の心になりきる。
それも、小さい生き方ではない。大きい循環を眺めるような生き方で、新た新たに。過去なんか一切、もう相手にしない。
現実なんか相手にしない。真の神さまだけを与えて循環させて、もう真の神さま以外何もないというくらいの、
断定する生き方に変わってくる。ありがとうございます、真の神さまだけ。真のプラスだけ、一大循環の愛の姿だけという風に。
それがもう、いやというほど感じられてくる。

だから、みんなと一緒に祈る。自分一人というのと違う。みんなと一緒に祈るというこの気持ちがあったら、
みんなが菩薩になって自分を助ける。その助け合いの中で大きい、大菩薩としての生き方で、この世の全部を菩薩界に変えて、
本当の菩薩行をみんなにさせていく生き方。だから、過去のプラス・マイナスは、もうどちらでもいいような感じ。
いじめ、いじめられて、殺し、殺されてって、相対の両極の姿に分かれる姿なんて、本当に小さい波に見えてくる。
本当の光の流れを、大きい海の海流のように、大きい光の流れを流すだけ。この世に流して、あの世を全部きれいに大掃除してしまう。
この世が本当の光のパイプ。本物のパイプに置き換わる。あの世を大きい光で流して、この世から真実の世界へ吸い上げてしまう。
そういうお祈りが、真のありがとうございます、本当の真祈り。それをただひたすら実行するだけ。
ありがとうございます、ありがとうございます、ともう祈るだけ。そしたら、必ずその結果は出てくる。


(平成25年6月8日のお話 第1部)