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真の神さまの一大循環の相象(すがた)がどれほど素晴らしいか、凄いこれ一番大事な根本。
その一大循環の相象を一瞬止めて、掴んで、掴んだと思うだけで、虚の世界が生まれる。
そうすると掴んだものと本物とには、どのぐらいの違いがある

一大循環の相象が、今最高の相象が現れた、それが無限のスピードで連続して、ずーっと流れる。
今の一瞬だけでも、虚の世界と真実の世界を比較したら、無限とゼロ。
更に無限のスピードで循環する相象に合わせたら、無限の無限とゼロとの比較。
だから、虚の世界を掴んだと思う虚の世界全部、何もない。ゼロ。何もないというのが虚。

最初に、一大循環の相象を掴んで、これが自分と掴んだら、これが虚栄心。これが自分の物と掴んだら、執着心。
過去を掴んで積み重ねたのが業想念。業想念の東西の両横綱。これが、虚栄心と執着心。両横綱の下にまた一杯いる。
業想念の色んな違いのすがたで一杯控えている。下に一杯無限に。

種類が一杯無限にあって、段階が無限にあって、一番上の東西の両横綱が、大きく束ねて、虚栄心と執着心と言う。
だから、これが自分って、自分って掴んだのがもう虚栄心。自分が無くならないとダメ。
一切の我の無い無色透明の自由自在の自分。ここへ戻らないと虚栄心がある。

過去を掴んで掴んでって、掴むごとに我が出てくる。掴み続けて、我が無限に一杯になったのが一番下。
十界でも、我が多いほど下。我が少ないほど上。一回だけ掴んだ我だったら、仏界の最高の世界。
一回しか掴んでないから、我が小さい。少ない。我を無限に無限に積み重ねたら、地獄のどん底。我が多い。
声聞でも、かなり我を消してもらっても、まだ残っている。

上へ昇ろうとしている人は、我を消そうとしている、減らそうとしている。降りていく人は、我を増やし続ける。
声聞・縁覚・菩薩・仏でも、我のどれだけあるかないかで、ランク付けをされている。だから、少しでも自分という我があったら、虚栄心。

これが自分っていうのも、これが他人っていうのも虚栄心。同じこと。自分を認める、他人を認める、これは虚栄心。
自分のことを言ってないと言っても、周りに全部、自分の心を映しているから、自分の世界、自分なの。
虚栄心の全体というのは、自分の見ている世界全体。小さくではない。
小さくなっているのは、視野が狭いというだけで、全体が自分と思えないだけの話。
本当は全部自分なのに、気付かないだけ。虚の世界全部、自分のすがたと見るの。

自分が悟りたいというのが、なぜ虚栄心か?自分があるから。自分があるとまだ、虚栄心。
もし、自分が無くなったら、真の神さまだけ。一大循環の相象だけ。これに徹底しないとダメ。
本当に自分があって、みんなを悟らせたいと言っても、自分がある限り悟っていない。

どれだけ自分を立派に磨いても、自分がある限りまだダメ。悟りではない。
真の悟り、本当の悟りは、真の神さまだけって徹底できないとダメ。自分があり、他人があったらダメ。

自分よりも他を先に悟らせようとするのが、なぜ大事か?まず、自分がない。
他を悟らせようとするのは、自分がないからいい。自分がまずない。自分を無くそうという生き方。
自分のことは、もう相手にしないという生き方。

他を救おうというのでも、形を掴んだら虚栄心。まだ負けてしまっている。形ではない。
悟らせようというみんなは、一切の我の無い自由自在心のみんな。そこへ真の神さまだけを与え続ける。
悟りを与えるというのは、真の神さまを与えること。無色透明の自由自在心に、真の神さまを与え続けたら、悟らせたことになる。
みんなを先に、彼岸に渡したいというのは、そういう悟らせる生き方。

自分のことは最後でもいい。みんなを幸せにしたい、最高のものを与えたいって、真の神さまを与え続ける、
ありがとうございますを与え続ける、徹底して与え続けるだけになると、真の神さまだけ。
そして、自分に与え返されてくるのは、みんなから同じように、真の神さまだけが与え返される。
そうすると、自分が受け取るのは、真の神さまだけ。
自分が与え続けるありがとうございますよりも、全体から与え返されるありがとうございますの方が、無限倍になって返って来る。

だから、先に他を渡そうとする人は、一番先に渡してもらえる。
自分のことを忘れて、他を渡そうとする、みんなを悟らせようとする、真の神さまを与え続けようとするのが正しい。
そして、自分が消えないとダメ。形ある自分が消えないとダメ。無色透明の自由自在心は永遠に消えない。本物は消えない。
でも形は、一瞬掴んだだけの形だから、また何でも掴める。今一つ掴んで、次、別なものを掴んで、自由自在だから、形ではない。
一大循環の相象、全体が無色透明の自分の中をいつも通り抜ける。

だから、常に、全体が自分。大きく掴んでも、小さく掴んでも、掴んだだけがその時の自分だけど、掴んだら虚の世界。
形を掴んだら虚の世界。掴まなかったら、循環のままに眺めているだけだったら、真実の世界。どちらが幸せか?

掴んだら、一瞬掴んだら、少ししか掴んでない。ゼロ。一大循環の相象が、無限に無限に素晴らしい。
それが永遠に続く、永続する相象。だから、掴まないように眺める。
眺めるというのは、目に兆だから、一兆の数、全部、全てを見るという意味。一部だけではない。
眺めるというのは、大きく深く全体を見ること。

本当は、一大循環の相象の全てだから、入れ子構造のすがたも見抜かないとダメだし、重層構造もそうだし、
ところてん式もそうだし、全てを見抜いて、一大循環の相象を見る。これが眺める。眺めるだけだったら、正しい生き方。
これが本当の自分の生き方。

真の自分の生き方に、早くその自分に戻らないとダメ。だから、過去を掴んで、掴み続けて、マイナスの言葉を積み重ねて、
マイナスの言葉というのは、掴んだらプラスが少なくなるから、必然的に言葉がマイナスになっていく。
更に掴んだら、プラスがないからマイナスになっていく。どんどんマイナスになるのは、仕方がない。

だから、マイナスの言葉を掴み続けて、積み続けて、その言葉の下敷きになってしまった。
もうこれ以上落ちるところがないというところから、また救い上げてもらっている。
もう何もなかったら、マイナス言葉は使わない。比較するものも何もないから。
どん底へ落ちたら、もう後は、勝手に上がる。疲れ果てて、無駄な努力をしなくなる。
それで自然に浮かび上がってきて、助けてあげてもらうすがたを取るようになっている。

だから、過去を掴むことが、いかに愚かか。これが自分のもの、これが自分って掴むことがいかに小さいか。
これに気付けばいい。これが自分って掴まないために与え続ける。それも大きく、真の神さまを与え続ける。

受けるありがとうございますは小さい。与えるありがとうございますは、無限倍になる。そうすると、全体との支え合い。
浅い段階でそう。これが入れ子構造になったらもっと大きい支え合いになって、更に大きくなる。
どこまでも支え合いが、大きく大きくなっていく。そしたらもう、小さく掴んで、虚の世界に陥ることなんか絶対不可能。
そこまでやっぱり、戻らないと。

本当は、一度、虚の世界に落ちて、地獄まで行って正解。一回体験しておくと、二度とそういうことありえない。
温泉に浸かってきたら、それで終わり。神さまから見たらそんな感覚。虚の世界というのは、一瞬のうたた寝だから。
一瞬うたた寝をして、夢を見てきて、別府温泉に浸かったという、これぐらいの地獄めぐり。

だから、過去を掴んで、これが自分というと、ここがもう全て虚栄心。そこから派生する虚栄心が無限に一杯ある。
自分のものって掴んだ時から執着心。自分が無かったら自分のものって掴まない。自分って掴む方が上。執着心の方が下になる。
東西の西の横綱が執着心。同じ掴むのでも、本物を掴めるのと、虚の残像を掴めるのとで全然違う。
虚の世界は、いくら掴んでも何もないものを掴み続けるだけだから、プラスではない。マイナスになっていく。
ゼロではない。マイナスになっていく。掴み続けるほどマイナスになる。

だからもう、みんな虚の世界に陥ることはない。真のありがとうございますを与え続ける。
与え続けるお祈りに気付き始めて、実行し始めて、ありがとうございますを唱えることが、
真の神さまを、一大循環の相象を与え続ける、与え続けていることになっている。
だから、虚栄心は自然に消える。消そうとするのは大変。消そうというのは、ものすごい努力をしても無理。永遠に不可能なぐらい。

でも、真のありがとうございますを唱え続けるだけで、真の神さまを与え続けるお祈りをするだけで、
全ての虚栄心を消すだけの力が流れ込んでくる。循環が元に戻ったら、循環に気付いたら、虚栄心は消えてない。
もう消すまでもない。循環に気付いたら、虚栄心は元からない。止めていない。虚ではない。本物だけ。真の神さまだけ。
真の降り注ぐプラスだけ。本当の一大循環の愛の働きだけになる。


(平成25年6月1日のお話 第1部)