真のありがとうございます 

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 みんな無言の行をやってみたらいい。見ざる聞かざる言わざる、眼帯をつけて、一日でも大変だと思う。
目が見えないというのは、やっぱり神さまの世界だけを見ようとしたら楽。
だから、お祈りの時、目を閉じるのもそういう意味。耳栓もいいかもしれない。最初は、それも必要かもしれない。
でも、神さまの方に向きだしたら、マイナスの雑音は聞こえなくなる。
その雑音の中で、マイナスの言葉の中で、真剣に神さまを思って祈ると、本物になる。マイナス言葉は聞こえなくなる。

やっぱり、みんな引っかかるのは言葉。すがたではない。形ではない。言葉。
プラスの言葉を真剣に唱えていたら、マイナスの言葉が入ってこない。引っかからない。
そしたら、見るもの聞くもの言うもの、全部プラス。形がどうのこうのと違う。
だから、自分が本当にプラスの言葉だけを真剣に唱えた時は、マイナスの影響を一切受けない。
マイナスの言葉は、絶対に波が合わないし、入ってこない。その時は、見ざる聞かざる言わざるになりきっている。
ありがとうございますを真剣に唱えたら、必ずそうなれる。これが本物。

無言の行も、最初は必要。段階を追って、色んな無言の行が必要。見ざる聞かざる言わざるも必要。
一切見ないという練習もいる。聞かないという練習もいる。でも、最後は、神さまだけを見て聞いて言ってという、
そこへ持っていくのが本物。しっかり祈らないとダメ。神さまを言葉にする、神さまの最高表現を見る、神さまの言葉だけを聞く。
これをもう、真剣に真剣にやり抜かないとダメ。

だから、虚の世界の、ばらばらの感覚が消えるまで、本物を相手にする。虚を相手にするのと違う。
虚から逃げるのでもないし、闇を消すのは、光を持ってくればいいだけだから、虚を消すのも実を持ってくればいいだけ。
だからもう、真の神さまだけを相手にする。それで虚も闇も消える、マイナスも消えてしまうという生き方になる。

だから、仏教でも悟りの世界を求め続けて、色んな生き方がある中で、どれだけ真剣に本物を捉えられるかという勉強をする。
過去・現在・未来の現在に、振り回されないように、色んな例え話が出てくる。

ウサギとカメの問題もそう。ウサギが後ろにいて、カメが前へ進んでいる。カメが前に進むとウサギが追いかけて近づく。
でも、これを逆に見て、ウサギがカメに追いついたとすると、その時間の間に、カメは少し前に出ている。
またウサギがカメに追いつく、その間に少し時間ある。だから、少し前に出ているという。また追いつく、必ず少し前に出る。

どこまでも、無限分の一秒まで差がある。だから、ウサギはカメに絶対追いつけない。
まぁ、こういうことはあり得ないのだけど、そういう風に見ると、ウサギがカメに追いついたという現象のすがた、
色んな現実のすがたが、嘘ではないかとなる。追いついたのではなく、離れているウサギとカメがあって、
引っ付いているウサギとカメがあって、ウサギが前に出ているすがたがあってという風に、連続していないのを繋いでいるだけではないか。
本当はそう。

だから、追い越したというすがたを先に掴んだら、もう勝手に追い越している。
饅頭の話も同じ。饅頭がここにある。いつ食べるのという問題が出てくる。持っているけど、本当は口に運べるの?って。
いつ食べて消化するの?この持っているのと、食べている、消化してしまったというのを、連続させているかどうか。
悟りというのは、そういう連続させて、つなぎ合わせたすがたではわからない。

悟りは、あくまでも先に結果を掴む。今ここから順番に修行して悟るというのだったら、掴めない。
順番に段階を追って悟ろうとするのは、絶対にゴールに近づかない。
だからもう、すでに悟っているという結果を先に掴んでしまったら、ゴールを先に掴んだら、
あとは今どこにいても、すっと入ってしまう。途中にどんな繋げ方をしても関係ない。
一番最後の結果だけ、的だけ、ゴールだけを掴んだらいい。それが悟りを掴む方法。

だから、今を掴むこと。真の神さまだけを掴むこと。
それだけを言葉にしたら、自分の自由自在な意識がそこにぴたっと当たるわけ。矢が的に当たるように。
そしたら、悟った自分、真の神さまと一体の真の神さまだけが全て、という実感が湧き上がる。

だから、あまり過去・現在・未来を掴む思いの心で、いくら何かを考えても違う。考える心ではわからない。
真の神さまを信じる心だけ。真の神さまは絶対の愛で、完璧。真の神さまを信じる言葉が、本当の信になって、本物を実感する。
だから、言葉選び。本当のプラスの言葉選びだけが必要で、それをしっかりと唱えるだけが正しい。


(平成25年5月25日のお話 第1部B)