真のありがとうございます 

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 過去を振り返るのは、やっぱりマイナス。それを言葉にしたらマイナス言葉。
過去を掴んだ自分って、みんなマイナスの自分。

虚の世界というのはみんな、過去に積み重ねた言葉、思いの投影。だから、走馬灯とか、影絵。
光がどれだけ強く放射されるかによって、影絵も明るい影絵、暗い影絵が生まれる。明るいほど本当はいい。
それも全方向から光が来ると影が消える。太陽が大きく輝いている時は、影が少ない。
あちこちから乱反射すると明るくなってしまう。影が消える。

本当のプラスというのは、新たに新たに降り注がないとダメ。真のプラスの言葉が本当のプラスの言葉だけど、
真のありがとうございますを祈り続けてこそ、真の神さまを、真のプラスを与え続けることになる。
全てに対して与えることになったら、全方向から真の神さまが、真のプラスが、大きい光になって、全体から降り注ぐ。
そしたら、どこにも影も闇もないという風に変わってくる。

日常生活の中で、どれだけ真剣にありがとうございますを唱え続けられるか。
虚の世界の影絵として何をしても、あまり大したことない。プラスのことをしていると言っても、プラスでも何でもない。
虚の世界全体へ、どれだけ大きい光を投げかけるか、与えていくか。


真のありがとうございますを祈るということは、真の神さまを与えること。真のプラスを与えること。
一大循環の相象(すがた)を与えること。だから祈り続けることで、真の神さまを与え続けたら、
それも全ての全てに対して与え続けられたら、虚の世界が消えていく。影もマイナスも闇も全部消える。

同じプラスでも、真のプラスと虚のプラスがある。比較上のプラスは虚のプラス。
謙虚に一番下に降りたら、上は全部プラスに見えると言うのは、比較上の虚のプラス。
常に全て、それができるかというと、そうではない。下にいる時は、上の人を羨んだりする。羨むと悪口を言う。
プラスに受けるとは限らない。謙虚に下に降りてプラスに見える人は、やっぱり神さまを捉えている人。
比較上の問題ではない。神さまを感じるから。神さまの光を受けたら、形の比較なんてない。
神さまの愛の光をどれだけ感じるかで、プラスを感じる。だから、下から上を見て、ではない。本当はそう。
神さまの方を向いているから、プラスを感じる。

神さまの光を与え続けて、浴びせ続けて、感じやすくしていくというだけがプラスの生き方。だから、言葉ではない。
暑い、寒いという言葉ではない。どちらもプラスにもなり、マイナスにもなる。
枝葉の言葉ではなく、真の神さまの真のプラス、働きを与えて行くこと。そしたら、全てがプラスに置き換わっていく。
大きいプラスが加わっていく。マイナスは消されて、大きいプラスに戻って行けばいい。それが本当の真のプラスだけになればいい。

だから、本当のプラスは真のありがとうございます、一言。
ありがとうございますの中には、無限の真のプラスの言葉が一杯あっても、全部束ねるのが、
真のありがとうございます、ありがとうございますの一言。

ありがとうございますの一言を、本心の自分がずっと祈り続ける。真の自分、本心の自分は、過去を掴まない自分。
一切の我が無い自分、無色透明の自分、自由自在心の自分。これが自分というのがない。
その自由自在の自分が、ありがとうございますを唱え続ける、祈り続ける、与え続ける。それも心の奥深くで、密かに。

だから、表面ではない。表面の影絵の世界、走馬灯のような世界ではない。形にはない。
真の自分、本心の自分のすがたは、無色透明だから、形に現れない。ただ、ありがとうございますを祈り続けて、
全ての全てに対して大きい光を与え続ける。これも形ではない。全ての自由自在心の一人ひとりに対して。
これも形ではなく、本当の自由自在心の意識の一人ひとりに対して、真の神さまを与え続ける。どこまでもどこまでも与え続ける。

無限のマイナスが積み重なって、その意識を邪魔していても、それは無関係。そこへ与え続ける。
真の神さまを与え続けたら、邪魔するものが全部消えていく。
真の神さましかないようにしてしまえば、自由自在心は、真の神さまだけを感じ取る。

過去のマイナスの言葉を積み重ねたからどうのこうのというのは、もう必要ない。
真の神さまさえ、与え続けられたら、過去の全部は消されていく。一人ひとりの自由自在心は真の神さまを感じ取る。
お互いがそういう風に、与え合えば、みんなが全方向から大きい光を与え続けて、影も闇も全部、どこにも存在できないようにしてしまえる。

だから、小さい菩薩とか、仏としての生き方ではない。菩薩の自分、仏の自分と掴んだら、形を掴んだら、小さくなる。
虚の世界のすがたを掴んでいるから。真の自分に一切の我が無いというのは、形がない、形あるものを何一つ掴んでいない、という意味。
本当の無色透明の自由自在な意識。だから、何にも縛られる必要がない。縛られない。

常に、真の神さまだけが自分の中を通り抜ける。自分の中を循環する。
みんながそういう風な生き方を取れば、真の神さまの与え尽くし合いになる。
みんなが、自分一人のために祈り続けて、真の神さまを与え続けてくる。
だから、自分がどれだけ闇を作っても、影を作っても、無駄な抵抗、無駄な努力。瞬間に消える。

みんなが、どれだけマイナスの言葉を駆使してそれを使い続けても、その言葉通りにはならない。
マイナスの言葉を消す力の方がはるかに大きい。みんなが助け続けてくれて、真の神さまが大きい光を与え続けてくるから。
だから、どんなマイナスも、無限の無限の努力をしないとマイナスを保つわけにはいかない。
本当は、地獄絵図と言っても、それを保つのが大変。神さまの愛の働きに抵抗して拒絶し続けるのは、大変なの。
神さまから見たら、一瞬の苦しみ。呼吸を止めて苦しいと言っているだけの話。
呼吸を止めたら、みんな我慢している。一生懸命、我慢し続けて、最後になったら苦しい。
地獄の苦しみって、最後の一瞬の苦しみ。一回息を止めてごらん。一分間ほど少し頑張ってごらん。
息を止め続けると、循環を止め続けると、最初は苦しくない。中に酸素が一杯入っているから。
もうギリギリのところまで来た時に、最後の一瞬が苦しい。最後の一瞬、苦しくなったら、止めることが出来なくなる。
はーっと吐き出す。そしたら、苦しみから解放される。循環し始める。


(平成25年5月18日のお話 第1部@)