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いじめと言う言葉を使うのは、六道に堕ちた人。マイナスの言葉だから。因縁因果でそうなっているっていうのも、六道の世界。
いじめたからいじめ返されるという受け方は、六道の世界の受け方。
それで、いじめられることによって強くなるというのもそう。いじめられ続けられたら、いじめられた人は強くなる。
地獄に堕ちた人は強い。いじめるぐらいだったら平気。殺されても平気な人がいるくらいだから。
だから強くなると言うのも、六道の世界。

殺したら殺される、いじめたらいじめ返される、借金したら借金返しの苦難があるって、両方セットで必ず生まれてくる。
そのどちらも全部、マイナスの言葉を使っている限り、過去を掴んでマイナス言葉を使っている限りは、
坂道を転げ落ちる雪だるまみたいなもの。雪だるまが上になったら、いじめている方。回転して下になったら、いじめられている方。
どちらも大きくなるから、いじめる業も大きくなる。いじめられる業も大きくなっていく。どんどん大きくなる一方。
だから、減らないの。いじめたらいじめ返されて、いじめられて消えるのではないの。両方増える。
これはもう、六道の世界がそう。因縁因果の、不昧因果の法則に縛られて、それで地獄絵図になってしまう。

声聞・縁覚・菩薩・仏というのは、上にあがるすがただから、本当は地獄から救い上げてきて、
声聞まで来ても上げてもらっていることに気付かない。気付き始めた時からが声聞・縁覚・菩薩・仏の段階に入っていく。
声聞では、自分の身の上で七難八苦があっても、万分の一に消してもらっているんだと、現実の七難八苦を掴まなくなる。
万分の一に軽くしてもらったという神さまの愛の働きを受ける。これが声聞の低い段階の最初の受け方。
それがまた万分の一になって、億分の一になって、無限分の一になる。
一身上のマイナスがどんどん大きい愛によって小さくしてもらっているという受け直し。これが声聞の生き方。

縁覚は、自分の世界を、全体を見る。世界全体が七難八苦でも、万分の一に軽減して消してもらっている、
神さまの愛が降り注いでいるという生き方。声聞も縁覚も、受けるのはあくまでも神さまの愛の働きだけを受ける。
受け方が大きいか小さいかだけ。大きく大きく受けて、声聞・縁覚が卒業になる。

次は、菩薩の生き方だけど、菩薩はやっぱり受けるのではなく、与える側。
真言密教の経典の()(しゅ)(きょう)って菩薩の生き方を説いている。菩薩は、何をしても全部善プラス。
どんなことをするのも、全てプラス。なぜかいうと、やっぱり、与え尽すことによって、大きいマイナスを小さくしてる。

だから、積み重ねたプラスとマイナスの両方の業を消す場合でも、マイナスだけ消すわけにはいかない。
プラスも消さないとダメ。いじめる方もいじめられる方も消さないといけない。良いことしても悪いことしても、
どちらも消さないといけない。お金を貸しても、借りてもいけない。相対の両極に分かれる、両方を消さないと。
一方だけ消すわけにはいかない。菩薩は、プラスとマイナス両方をしても、マイナスを、消すべきものを軽く済ましているからプラス。

ミラレパという人の話がある。ミラレパという人は、小さい時にお父さんを亡くすわけ。親戚に財産を全部預けて、
成長したら返してもらうように約束しておいて、それが返してもらえなかった。
その仕返しをしようとして、黒魔術の師匠に弟子入りして教えてもらって、黒魔術の秘法を使って、村じゅうを全滅させるの。
ひょうを降らしてね。それでは師匠も自分も必ず地獄に落ちるから、師匠からお前は正しい道を教えてもらって、
みんなを地獄に落ちないように救ってほしいと言われて、新しい師匠を探して弟子入りするわけ。

そこで、本当のカルマを消す方法を身につけようと一生懸命になるわけ。その師匠は、ミラレパという人に対してだけは厳しい。
無理難題を言っては、それを実行させて、してきたら、反対のことを言う。
こんなこと言ってないのに何でこんなことをした、という感じ。殴り飛ばして、蹴飛ばして、叩き出すの。
それをずーっと繰り返すわけ。最初は、みんなを救うためにと正しい法を学んで修行して、
お祈りが出来て、カルマを消せるようになりたいと思う。

ところが、とことんそれをされると、挫けてくる。今にも、もう自殺したくなる。
もう、今生では無理、来生に夢を懸けるしかない、という感じになる。
それで今死ぬ寸前という時に、師匠から本当の訳を話してもらう。
お前は黒魔術で大勢の人を殺した、その罪を精算するのに、そんな簡単に消せるものではない。
いじめられることによって、軽く消してもらっているのだと。

師匠もやっぱり、いじめる側に立つのは大変。やっぱりいじめる業も、悪いことをする業も消さないといけない。
悪いことをして、罪を、罰を受けるという業も消さないといけないけど、両方消さないといけないから、
師匠は悪いことする方の業を背負って、一緒に消してくれているわけ。ある程度軽くなると、お祈りが出来る。
だから、お祈りが出来るようになったら、今度は一人洞窟に入って、祈りに祈るわけ。それで業を消せる力を身につけた。

だから、いい役だけではできない。人が病気で苦しんでいる、その苦しみだけを取ってあげたい、
これは軽い、小さいもの。病苦を身代りに受けて、自分が受けて消すぐらい、一瞬。それは本当の振り替えとは言わない。
根本の大きい業を、本心を覆い隠す大きい業を、消さないとダメ。それを身に受けて消すと言ったら、大変な事。それをするのが菩薩。

低い小菩薩から、大菩薩に至るまで全部そう。それぞれに自分のできることで、マイナスもプラスも両方しないとダメ。
だから、自分が与え尽くす側に立って、祈りに祈りながら、神さまに使ってもらって、させてもらう行、
これは何が出てくるかわからない。プラスばっかりは出ない。万分の一で済ましてもらっても、マイナスは出る。
それが病気というすがたで出たら、まだいい方の出方。人殺しで出たら大変。

いじめというすがたで出てもいやだよね。いじめるよりは、いじめられる方が楽。いじめる側の方が悪役。
いじめられる方が、いい役の方。いじめる方をみんな責めるけど、いじめられた方は、ああかわいそうと言ってくれる。
どちらをプラスに見るか。みんな、殺す方、いじめる方を悪く見て、殺されて、いじめられた方をいい方に見る。
悪玉、善玉と見る場合がそう。でも、その両方をやっぱり、消しきっていかないと、全てカルマを消しきって、
我を消しきってというわけにはいかない。

だから、表面の形を、現実を捉えたら六道。過去を掴んで、マイナスの言葉を使って、人のせいにして、
下へ堕ちていく六道の生き方。自分が今、菩薩でもダメ。菩薩でも堕ちていく菩薩と、さらに上がっていく菩薩とある。
どの段階にあっても、堕ちていく生き方はダメ。過去を掴んで、マイナスの言葉を一言でも使って、他のせいにしていたらダメ。

例えば、あの人がいじめられていると言う。それはあの人が過去世にいじめたからだと言ったら、
もうこれは堕ちていく生き方。その見方は必要ないこと。自分が今菩薩だったら、現実は掴まない。
いかに神さまの愛の光を大きくあてて、マイナスを軽くするか。両方のマイナスを消し去るか。
過去の言葉、思いを、マイナスというよりも、過去の言葉と思いを消すこと。


(平成25年5月11日のお話 第1部@)