真のありがとうございます 

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 祈ると言うのは、与えること。与え続けるのが祈り。真の神さまを与え続ける最高の与え方。
真の神さまを与え続けて、それも全ての全てに対して。全ての全てと言うと、入れ子構造的に大きく与え尽くす。
これはもう、どこに対しても全部そう。虚の世界にいる全てに対しても、実の世界にいる全てに対しても、
本当の本心の自由自在な意識を持っている全てに対して。だから、形は相手にしない。
虚の世界にいるから、その人が虚のすがたかというと違う。どの立場にあっても、みんな自由自在な無色透明の意識。
形で差別はしない。全てに対して真の神さまを与え続ける。真の神さまだけを与え続ける。
真の神さまだけが全てに降り注がれていくわけ。それを与え続けるすがたが、無色透明の自分の中を通り抜けるから、
受け続けるすがたになる。本当に受けるというのはそう。

見たらその人のことがわかったかというと、そうではない。特に、無色透明のものって、
例えば、透明なガラス玉が一杯ばーっとここに撒いたとすると、見えないの。意識したら少しはわかるかもしれない。
ところが、触ったら見える。触ったら感じる。見るよりも触る方が感じる。触ったら、ここに球があると全部わかる。
自分の中を通り抜けたらわかる。特に、無色透明なものは触れたらわかる。

だから、神さまが自分の中を通り抜けてくれたら、見てないけどもわかるの。これが真の神さまって。
真のプラス、一大循環の相象って、この体で感じるの。肌で感じるという感じ。そういう感じ方の方が、見て感じるよりも遥かに上。
だから、与え続けることによって、自分の中を通り抜けたら、本当に受け続けて、感じたことになる。
これが、真の神さまを受け続ける、感じ取る一番の、唯一の方法。

 与えっぱなしって、真の神さまを与えっぱなす、与えて与えて与え尽くし続ける、これをみんな目指す。
虚の世界にいて、声聞・縁覚・菩薩・仏の段階から上へあがろうとする人はみんなそう。
特に、菩薩・仏になったら、与えっぱなしのお祈りの練習。

だから、どの段階の自分であっても、今は自由自在な意識の自分が、言葉通りの場所にみんな立っているだけ。
自分がマイナスではない。マイナスの言葉のところへ行って、その場所へ立っているというだけの話。
自由自在な本心の自分の意識は完璧。神さまの心そのもの。言葉で左右されるようなものではない。
ただ、その言葉のところへ行って立っているというだけ。だから、言葉を変えたら、一瞬にどこでも行って立てるの。

下から上へあがるのも自由だし、上から下へ降りるのも自由だし。小さい部分に立つのも自由だし、
全体の大きい立場に立つのも自由。一瞬にどういう生き方でも変えられる。
だから、地獄の立場に立っていても、一瞬に絶対の中心にも入れる。下から順番に上へあがるのではない。
一瞬に、自由自在に、どこへでも立てる。

 下から上へ上がろうというのは、順番に追っていくのだけど、言葉を順番にプラスに変えていけばそうだけど、
でも、絶対の中心から、新たに新たに出てくるという風に見たら、一瞬で変わる。一瞬に与えっぱなしになれる。
最初から無色透明の自分って、断定すればいい。一切の我の無い無色透明の自分は、もう何も掴んでない。
過去も過去世も掴んでない。今の自分の立場を掴んでない。一切の我の無い無色透明の自分はそう。
本当の白紙の状態で出発点に立っている。そのあと、すぐに、今選んで使う言葉の通りになる。それが本当の自分。
自由自在な無色透明の自分。絶対過去や過去世には縛られない。また言葉にも縛られない。
常に、新たな今を生きようとする。それも神さまと同じように与え続ける生き方。それも大きく大きく与える生き方。

同じ与えるのでも、入れ子構造的に与えると言ったら、本当にものすごい与え方。
同じ一つの次元で与えるのはまだ易しい。でも、入れ子構造の一段上からもう一つ大きく与えると言ったら、もっとすごい。
それがもう一つ上の、一段上になったら、もの凄い。それが限りなく続くという段階だから。

 万華鏡の話もたとえに使ったけど、鏡に映る万華鏡は大したことないの。万華鏡って、虚の世界の移り変わりのすがた。
鏡に映るのではない。光の組み合わせの交差による万華鏡はものすごい。全てが螺旋状に回転しながら組み合わさって、
本当に鏡に映る万華鏡の万倍以上。キラキラキラキラ輝きながら変化する。同じ次元でそう。
それが入れ子構造になったらものすごい。もっともっとすごい。本物だから入れ子構造で組み合わさって、輝き出てくる。
虚の世界のものは大したことがない。鏡を重ねてもダメ。大した変化はない。

 いつも全体像を、全体像を掴む。今の自分はどこにいる、ではない。いつも全体像を掴んで、自由自在にならないとダメ。
そしたら、今どこにいるかと言われた時に、どこにもいないと言わないと。どこにいると言ったら、もう掴んでいる、縛られている。
今の自分は、どこにもいない、と言えないと。それで、新たにどこにでも行って立てると言う。どういう立場にも立つ。
やっぱり一瞬一瞬新たにというのが一番大事なこと。

 今というのが、本当に、永遠の完璧な状態を新たに受け直したすがた。もう過去とは絶対結びつけないすがた。
過去と比較したら、どんな場合もやっぱり過去に縛られる。だから、一切の過去を掴まない生き方でないと、
少しでも過去を掴んだら、残像の中に陥りやすい。いくら新たに新たに受け直そうとしても、やっぱり縛られていくから。

 だから絶対もう過去は相手にしない。声聞・縁覚・菩薩・仏として、順番に上に昇っていく生き方でも、
絶対過去は相手にしたらダメ。絶対の中心から、真の神さまから降り注ぐ、新たなるものだけを、受け入れる。
それも一瞬だけ受けるのではつまらないから、受けると言うのは、一瞬小さく受けているだけ。大きく受け続けてない。

与え続ける側に立って、初めて受け続ける。新たに受け続ける。求める心はもともとよくないけど、
受ける心も止めて受けているから、一瞬一瞬、受け直すのは忙しい。それよりも、与え続けるという生き方になったら楽。
与えっぱなしに、与え続けるだけになったら、自分は何もしなくていい。
大きい循環が、流れが、自分の中を通り抜けるだけだから、それを確認して、感謝して喜んで受けるだけ。

だから、与えっぱなしの本当のお祈りというのが一番いい。真のありがとうございますは、真の神さまを与え続けるお祈り。
これが本物のお祈り。虚の世界のありがとうございますは、一瞬小さく受ける、単なる感謝・お礼。
この違いをいつも確認しながら、ありがとうございます、ありがとうございますを唱え続けたら、最高の与え方になっている。

色んな言葉を並べ立てるよりも、一言ありがとうございます。真のありがとうございますは、最高の与え方で、
そのままで本物になっていく。だから、色んな言葉で説明されていても、過去を掴んでしまうと縛られる。
自由自在な立場から眺めると、縛られずに、意味を汲み取れる。


(平成25年4月27日のお話 第1部A)