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 十界の十の心境があっても、上から降りてきている人と、下から上がっていく人と二通りがある。
声聞・縁覚・菩薩・仏でも受け方が両方ある。その両方を区別しないとややこしい。

下へ降りる生き方と言うのはやっぱり、過去を掴んでいる。執着している。そして、マイナスの言葉を使っている。
求める心になっている。どの段階にあっても、必ず下へ落ちていく。上へ上がろうとする人は、新たに受けている。
新たな受け直し。過去を掴んでいない新たな受け直し。そして、プラスの言葉になっている。与える心になっている。
だから、上から降りているか、下から上へ上がっているか、正反対の受け方をする。

声聞というのは、最初はみんな小さく掴んでいるから、小さい自分を掴んだ自分がプラスに生きるかマイナスに生きるか。
だから、声聞の場合は、七難八苦でも、自分の身の上の七難八苦。この七難八苦が無限のマイナスを万分の一に済まして、
軽減して、今の七難八苦になっていると受ける。この受ける時に、現実に形に現れた七難八苦の方を掴むか、
新たな神さまの愛を掴むか。形の方を掴んだら落ちていく方。七難八苦の方をより大きく掴んだら落ちていく側。
逆に、神さまの愛の方を掴んだら、受け直したら、上がっていく方。

 同じ万分の一に済ましてもらったと言うのでも、二通りの受け方ある。現実化した過去、現実化したと言うのは過去の方、
七難八苦の方を大きく掴んだら、過去を掴んだことになる。神さまの愛の方を掴んだら、新たに受け直したことになる。
だから、現実の七難八苦は掴んだらダメ。神さまの愛の働きによって、消してもらったという受け方。
上がっていきたい時は、消してもらった、消えたという風に突き放さないとダメ。
だから、上がる時は、現実を絶対掴まないとのがいい。そして、プラスに思い返す。

縁覚は、自分の見ている世界全部、自分の心を映す鏡のように見る。小さくではない。自分の身の上だけではない。
世界全体が自分のすがたと見て、大きく受け直す生き方。この時も同じ。
現実の方を見ると、世界に色んなマイナスが一杯あるという風に見ると落ちていく。
万分の一に済ましてもらった七難八苦と言っても、七難八苦を現実的に見ていくとダメ。反対。
軽く眺めるように消してもらっている、消えて行っていると突き放さないとダメ。どんな姿が周りに見えても、
消えて行っている、消してもらっている、ありがとうございますよね。それで、神さまの大きい愛だけを感じ取ろうとする。
新たに新たに降り注ぐ、神さまの愛は、底しれない大きさ。いくら大きく受けてもまだ足りない。
特に、虚の世界で受けている神さまの愛のすがたなんて、ものすごく小さい。だから、どれだけでも大きく受け直せるはず。

虚の世界の全体を、例えば全体が地獄絵図であっても、無限の無限のマイナスであっても、
神さまの愛から見たら、そんなマイナス、一瞬で全部消せるちっぽけなもの。
だから、どこまで大きく神さまの愛を感じ取るか、虚の世界も一瞬で消せると言う位の大きい愛を感じ取ろうとする方がいい。
そのくらいの気持ちで大きく神さまの愛を、一瞬一瞬新たな愛を、受け直すのが縁覚。その大きさも縁覚でも段階がある。
だんだんと大きくなっていく。

 そうすると、声聞・縁覚でも新たな愛を受ける。それも小さい受け方から大きい受け方に変わっていく、受け方の変化の世界。
神さまの愛を受け直す世界。まだ与える世界ではない。受け直す世界の方。声聞の方は小さい。縁覚の方が、大きい、深い。

菩薩・仏も両方の生き方があるから、過去を掴んだら落ちていく。順番に、菩薩から縁覚まで落ちる。
だから、過去を出来るだけ掴まない方がいい。例えば、菩薩だったら、与え尽す側と言うけど、与えるものがどういうものか。
まず、掴んだものを与えようとする。これは自分という、素晴らしい自分だ、輝いた自分だと掴んでいる。
その自分を与えようというのは、掴んだもの与えている。そうすると、掴んで掴んで下へ落ちていく。

菩薩でも上手な、上へあがる菩薩は、突き放す。与えたと掴まない。自分を掴まない。謙虚になって、与えさせてもらった、
神さまのお蔭で、神さまの力で、神さまの働きで、自分は何もしてないけど、神さまが与えて下さったという感覚。

だから、全然自分というのを掴まない。それで、自分のしたことも掴まない。これは、上へあがる生き方。
菩薩の場合、まだその与え方が小さい。やっぱり自分が小さいから、自分の中を通り抜ける神さまの愛の働きも小さい。
同じ与えるにしても、大きく全体まで届かない。小さい範囲へ届けるような、与えるような生き方になる。
菩薩でも大きくなると、与える範囲が広がる。大きく広がっていく。

仏と言うと、もっと大きい。宇宙全体という感じの与え方になる。それでも与え方が上へあがる与え方だったら、自分がない。
真の神さまの働きが自分を通して、循環していくという与え方になる。自分は最高に輝いた素晴らしいものだと掴んでない。
真の神さまが素晴らしいという受け方で、自分を通して真の神さまを与える生き方。
だから、自分がいくら最高の位置にあっても、虚の世界で最高の位置にあっても、自分というのを掴んだら、下へ落ちていく。
残像を掴んでいるから。真の神さまを受け直してない。過去の掴んだものを与えようとしているだけだから。

真実の世界というのは、真の自分は本当の自由自在な無色透明の自分。
だから、これが自分、これが自分のものと一切掴んでいない自分。真の神さまが自分の中を通り抜けるだけ、循環して通り抜けるだけの自分。
だから一切、真の自分、本心の自分というのは、自分も自分のものもない。
真のお祈りは、与え尽くすだけというのだけど、真の神さまを与え尽くす、真のプラスを与え尽くす。
一大循環の相象を与え尽くす生き方。どこにも自分というのが出てこない。
与え尽くすって、神さまが与え尽くす働きそのもの。与えっぱなしの働きそのものだから、自分がその神さまと一つに同化してしまう。


(平成25年4月27日のお話 第1部@)