本心側に立つという自分は、総責任者だから、全ての責任を自分に持ってくるから、
自分一人でも消そうとしないとダメ。どんな消し方をしてくれるのも、自分のマイナスを消してもらったと受け取るのが正しい。
まず、自分一人でも消さないといけないから、自分のマイナス全部、自分が責任をもって消す。
そういう決意を持ったマイナスだから、誰が助けてくれても、自分の身代わり肩代わり。
ただそれはマイナス出たから、肩代わりしてくれたのではない。無限分の一にマイナスを減らしてくれたら、大難が無難。
何もマイナスがない。
この世のマイナスの無いすがた、無難のすがたも大きい肩代わり。あの世のマイナスを軽く消してくれている。
万分の一以下にしてくれている。大きい助けがあるわけ。だから、自分一人だったら大変なのに、大勢が大難を無難に変えている。
そういう助けをして助けてくれているという見方が大事。そしたら、その大難も小難も無難も全部、
この世の全てが自分の身代わりに、マイナスを大きく消す手助けをしてくれている。こういう受け方がいい。
その根本は、真の神さまの愛の計らいで、全てを動員して消し続けてくれて、助けてくれている。
マイナスを消すのは、真のプラスが加わらないと消えない。虚の世界だけだったらプラスでも多分積み重なる。
必ず真の神さまの降り注ぐ縦線のプラスが加わる。それも、全体を使って加わって、この世を通して送り返す。
この世へ通すまでに、大きい光を投げかけて、軽く消して、だからこの世は、あの世に戻す煙突。
向うに吸い上げる煙突みたいな働き。この世に軽く出ている。
だから、この世を通ったら、みんな煙になって、すーっと拡散して吸い込まれて消えていく。
だから、みんな自分の身代わりに助けてくれたという風に感謝するのが正しい。
本当は、助けてもらったという受け方はまだ浅い。感謝して受けているという受ける生き方よ。
プラスに受けるのはいいのだけど、受けるのは今の一瞬。真の神さまの表面の助けをちょっと受け取っただけ。
だから、一回きり。一つ見るのでも、一回きりの受け方。もう一回同じように受け直さないとダメ。
だから、いつもこの世の全ては、無限の無限のマイナスを無限億万分の一に軽減して、
消し続けてくださっている神さまの愛の計らいばかりって、いつもそういう風に言葉を使い続けないと、
助けを受けてないことになる。一回きりだと一回きり。十回言ったら、十回助けてもらったことになる。
でも、そこまで言葉を重ねるのが大変。まだ本当のプラスではないから。
それよりも、受ける生き方よりも与える生き方の方が大事。与える自分、本心の自分に戻って、ありがとうございます、
真のありがとうございますを唱えると、真のありがとうございますが真の神さまそのもの。
だから、ありがとうございますを唱えることが、真の神さまを与え続けること。
真のありがとうございますという祈りは、真の神さまを連続して与え続ける生き方。
真の神さまを与えたら、もう虚なんかない。自分が相手にするのは真の神さまだけになる。
どこへ与えても真の神さまだけを与えているから、自分には真の神さましかない。それが全て。
それを連続して与え続けたら、無色透明の自分の中を神さまが通り抜けるだけ。
本当の意味で、受けたことになる、真の神さまを受け続けたことになる。表面を少し受けるのと違う。
自分の中を通り抜けたら、神さまそのものを全部受けたことになる。それが連続して永遠にずーっと続く。
だから、与え続けるありがとうございますがいる。本心の心で、無色透明の自分が、真のありがとうございますを、
ありがとうございます、ありがとうございますで真の神さまを、真のプラスを、全てに対して一大循環の相象を与え続ける。
ただ真の神さまが循環するの。
与えるごとに自分が大きくなるのは、与えたところが自分になる。本心の誰かに与えたとすると、与えたものも自分。
だから、自分がどんどん大きくなる。どんどん大きくなるということは、自分がどんどん絶対の中心に戻るということ。
入れ子構造的に大きく戻って行ける。
同じ自由自在な無色透明の自分で立つのでも、大きく本当の絶対の中心に近いところへ、立つようになっていく。
そうすると、一回のありがとうございますが、無限の無限のありがとうございますになっていく。そこまで行った方がいい。
だから、受けるよりもまず、与え続けること。その与え続ける練習だけが大事。そしたら、真のありがとうございますに祈りが変わる。
(平成25年4月20日のお話 B)
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