真のありがとうございます 

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 真の神さまの世界を掴んでも、絶対の中心に近いところは大きい自分。どんどん末端に行くほど小さい自分。
また、虚の世界を掴んでも虚の自分。形を掴んだら、そういう風にいろんな形が分かれるけど、真の自分は、自由自在の意識。
掴んだものではない。本当の自由自在の意識のみんなに、真の神さまを与え尽くす。真のプラスだけを与え尽くす。
一大循環の相象(すがた)だけを与え尽くす。これが真の祈り。

形を掴んだら、その時はそれ一瞬だけの形。掴んだのは自分と違う。その一瞬、真の自分が掴んだというだけ。
次、何を掴んでいるか、次また変わる。変わった人にころころ変わって与えるのは難しい。本当の自由自在の、意識のその人に与える。
その人がどこにいようが関係ない。何を掴んでいるかは関係なく、常に真の神さまを与え続けられるわけ。そういう意味。

自由自在という言葉、自由というのはまず、真の神さまが真の自分という、この自分。自分の意志。
自分の意志通りに、どこへでも行けるという意味。自分の意志で、どこへでも行ける。
自在というのは、立場を移して、どこにでも立てるという意味。どこにでも行けて、どこにでも立てる、これが自由自在。

本心の自分、自由自在の意識の自分は、絶対の中心にも行って立てる。絶対の中心に近い所にも行って立てる。
入れ子構造の末端にも行って立てる。虚の世界にも行って立てる。どこへでも自由自在に行って立てる。これが自由自在という意味。

それで、菩薩の色んな違い、まず六道は必ず求める心がある。これは度外視して、声聞・縁覚・菩薩・仏の違いを話すと、
菩薩には、求める心がない。声聞・縁覚は、まず神さまの愛を受けようとする。プラスに受けようとする。
声聞・縁覚は受けることを重点に置いている。でも、受けるだけでは、真の神さまの一大循環の後押しは流れ込まない。
一瞬一瞬、新たに受け直しても、止まっている。本当の縦線だけのプラスにならないから、消す力は何もない。
声聞・縁覚では、まだ受けるだけ、上手に受けるだけ。神さまの愛を受ける、プラスに受けるのが上手なだけ。
でも、菩薩は今度もう、受けるのではないの、与えっぱなし。与えるだけにならないとダメ。
だから、恩返しに愛に生きても、与えるだけ。

菩薩と仏界の違いは、大きさ。大きさというと、過去を掴むほど小さくなっていく。
菩薩は、掴んで掴んで小さくなっている。小さい自分。仏の方が大きい。宇宙が自分って大きい。
同じように与え尽くそうとする。与えて与えて、与え尽くそうとする。
与えるから、今の自分の中を一大循環の相象(すがた)、真の神さまが通り抜けてくれる。

ただ、自分というものがあるから、まだその自分の中を通り抜ける。その大きさが、菩薩でも段階がいろいろある。
大菩薩は大きい。大きく光が流れる。仏になったら、もっと大きいから、宇宙全体の光が流れ込む。そういう感覚。
与えっぱなしでないと、神さまの応援・後押しがないから、何を消そうとしても消せない。縦線だけにならないと。
特に、虚の世界で救いに立つ時は、みんなの思いを、横線を全部消さないとダメ。消すために、与えっぱなす。
だから、お祈りがまず無かったらダメ。与える心で祈り言葉しっかり使わないと。

 祈るというのは、一番大事。祈らないと、何も与えてない。ぼーっとしてたら、何も与えてない。
祈り続けるということがやっぱり大事。祈ることが与えていること。祈ることが循環させること。
だから、与える心で、ありがとうございますを唱えることが、真のありがとうございますになってくる。
神さまのバックアップの大きい力のある祈りに変わってくる。でも、それを一回一回祈らないと、力がない。

だから、ぼーっと眠って座っているだけでは、足りない。祈り言葉をしっかり唱えないと。一回一回確認しながら。
与えるという意味で唱えるのが大事。それはもう、静かに無心に淡々とでいい。
祈り言葉を唱えるということが、与えることになっている。循環を後押ししている。

循環を後押しして、ちょうど人間の体の血液でもそうだけど、みんなが恩返しに生きて循環する。
全細胞が祈っている。みんなが祈らないと、循環が正しくならない。加速していかない。
祈るほどスピードが速くなる。加速する。与える量が増える。消せる横線が、全部早く消せる。
だから、スピードを速くするためにも、祈らないとダメ。祈り言葉をしっかり唱えるということが一番大事になってくる。

 もう、何も考えなくてもいい。ただ無心でいい。淡々とでいい。
ありがとうございます、ありがとうございます、と唱えているだけで、与える心で唱えるだけで、
一大循環の相象がそのまま自分の中を通り抜ける。その一大循環の相象、本当の真のプラス、縦線だけのプラス、
それが必要なところに流れる。

ただその、虚を消すとか、そんな意味で本当は考えてないの。あくまでも、全ての意識あるものに対して、
真の神さまを与え尽くそうとしている。そうすると、もし一人の人が虚の世界の思いの中に入っていても、
その人に与えるのは、真の神さまを与えている。ついでに虚が消えるだけ。マイナスが消えるだけ。
でも、与えるのはいつも真の神さまを与える。全てに対して。真の神さまだけを与え合っているわけ。
最高のものを与え合っている。だから、自分にも最高のものが与えられる。
それは絶対の中心からはもちろんだけど、全ての意識あるものが、全部が、自分に対して最高のものを与えようとしてくる。
すごいよね。

常に、全体から、全てから、最高のものを、どこから真の神さまが飛び出してくるのかわからないぐらい与えてもらっている。
だから、真の神さまだけ。これも本当に全てが入れ子構造になる。大きく大きくなっている。
自分の与えるものは全部、いつも無限倍にして返してもらう。

自由にしてもそう。自分の自由を全体に捧げるから、全体からも自由を返してもらったら、無限倍の自由。
何にも自分を縛ってこない。他からは絶対縛られない。逆なの。自分の自由を最高に生かしてくれる。
どこに行きたいと言っても、最優先してもらう。他の人を優先するのと違う。最優先してみんなが道をあけてくれる。
無限倍の自由ってそう。みんながここに立ちたいと言ったら競争になる。でも、最優先して一つの場に立たせてくれると言ったら、すごいこと。

自由自在でも、自分の自由を全て捧げる。真の神さまを捧げるというのは、そういう意味。全てを捧げる。
自由だけではないけど、他の面も全部、真の神さまに捧げると言ったら、全部持っているから、そうすると自由だったら、
無限倍の自由に必ずなる。それこそ本物。そういう意味で、自由でも、もっともっと大きい自由自在がある。


(平成25年4月13日のお話 @)