真のありがとうございます 

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 真のありがとうございますが祈れるようにならない限り、横線は消えない。
虚のプラスをいくら加えても、マイナスは消せない。虚のプラスはマイナスが付いた十字の縦線。
横へ、いくらそれを降り注がせても、やっぱり横線が積み重なる。虚のプラスだったら、縦一本ではマイナスは消せない。
横をつけて重ねるだけ。だから、縦線だけが降り注がないと、マイナスは消せない。
本心の自分のお祈り、真のありがとうございますが加わった時に、初めて真のプラスだけという、縦線が降り注ぐ。

本心の自分がありがとうございますを唱えるのは、新たなる無限の無限のプラスが無限に無限に一杯という、
縦線を与えること。だから、どこへ縦線を与えても、マイナスが消えていく。
そのお祈りをしている限りは、マイナスが消えて全部なくなる。
だから、本心側に立って祈っている人には、マイナスは見えない。何もない。

ただ虚の世界の、一番下の地獄へ行くまでに、到達するまでには、時間がかかる。
そこまでありがとうございますを唱え続けて、末端まで行くのは、大変。ずーっと順番に消しきらないとダメ。
そして、縁者を救おうと言っても、ちょっと大変。時間がかかりすぎる。
一番先に救わないといけないのを、後回しにしてしまうから。それで、早く肉体の光のパイプを通さないとダメなの。
肉体に本心の光を降ろしたら、一番下から救える。それも本物の光を降ろして救わないとダメ。真のプラスだけをって。

だから、真のプラスだけというお祈りをしていたら、肉体を道具として、光のパイプとして、最初から用意されたものだから、
まず低い世界を救うために用意されたものだから、ちゃんと機能を果たすようになる。
自分が地獄を救わないといけないのではない。自分は、お祈りさえすればいい。
真のプラスの光を降ろすだけのお祈りさえ出来たら、それで済むことなの。
それで、真の神さまだけ、真のプラスだけ、一大循環の相象だけ、これを徹底して、断定的に祈り続けて、
それだけが全てなんだって、やっぱり自分が確信できるところまで行かないとダメ。

この世と、神さまの世界とどっちが真実かって、言葉通りなの。この世の方が、現実性があると言うのだったら、
この世の言葉を使いすぎている。真の神さまの世界が本物だ、全てなんだって言うのだったら、しっかりお祈りできた人。
だから、神さまの世界だけというところまで祈り続けた人が、真のお祈りをしている人。
虚の世界がないって断定できないとダメ。現実を相手にしているのだったら、まだダメ。
もう常に、神さまの世界だけ、神さまだけ、本当のプラスだけなんだ。一大循環の無限のスピードのこの愛のすがただけなんだ。
これを本当に実感するまで、もうそれしかないって言えるまで、徹底して祈って祈って祈りぬかないとダメ。
それが本心の自分のする本当のお祈り。真のありがとうございますは、そういう意味。

真の自分が真のありがとうございますを唱えるというのは、真の神さまを、全てに対して与え続けること。
そしたら、全てから同じように、真の神さまを感じさせてもらう。まず、与えないと受けられない。神さまの世界はそう。
受けたら受けたのと違う。与えたら受けられる。与えたら、循環して、入ってきて受けられる。受けるだけなら一回きりなの。
与えてなかったら、循環してこないから、一回きりなの。永遠に受け続けるのは、与えたら受けられる。
だから、与える心で与え尽す。だから、真のありがとうございますは、真の神さまに与え尽すの。全てに対してね。
真のプラスを全てに対して与え尽す。一大循環の愛のすがたをすべてに対して与え尽す。
与え尽すのが、ありがとうございます。他にすべての働きが全部含まれているけど、まず神さまに与え尽すっていう意味。

虚の世界は、違うの。感謝・お礼って受ける意味。本心の方は、正反対。与え尽すのが真のありがとうございます。
だから、循環したものを全部自分のものにして感じて、なおかつ、それも与え尽す。
だから、神さまの与えてくるものが全部わかる。本当の意味で深くわかる。一回きりではない。
無限にわかる。無限倍にわかるの。それで与え尽して、神さまのプレゼントを全部、受け尽くせる。
それで神さまだけ、真の神さまだけというのを実感して、褒め称えて感謝して喜ぶという、
最高の幸せを味わい続けることになる。だから、受けるという立場から絶対卒業しないとダメ。
一回きり受けたってダメだから。受けるというのは一回きり。与え尽すというのが永遠に続く。
後押しで、無限循環で与え続けてもらうから、求めなくても与えてもらうから、受けるよりも自分の中を通り抜けるから、
表面を受けるのではない。自分の中を通り抜けたら本物。本当の受け方をする。

だから、本当に一体感が備わる。太陽の光を受けても、太陽の光と自分は、一体化していない。
光を一筋受けただけ。でも、太陽が自分の中を通り抜けたら、太陽の全部が自分のものになる。
だから、与える側というのは、太陽が自分の中を通り抜ける。
一大循環の相象は、入れ子構造の、無限の無限の天照大御神が、自分の中を通り抜ける。
だから、全てを受け取る。やっぱり、そういうお祈りがこれから必要になる。

大きく変わったのはそこ。本心の自分に戻って祈るお祈りが本物。
与え尽すだけの自分が、真のありがとうございますを唱える。これが、虚の世界を消すお祈り。
それも一人でするのではない。本心の生き方全部が、みんなとの支え合い。自分一人で何もしない。する必要がない。
全体から支えられてする。自分一人がしているようでも、していない。全体から、必要なものを全部与えられて、支えられて力を発揮する。

だから、支え合いが本当の生き方。自分が出る必要は全然ない。100%、神さまのお蔭ですって、謙虚になった時が、
本当の力を発揮させてもらえる。自分を隠して隠してよ。それでも押し上げてもらう。
それでも隠して隠してって、押し上げないでって、無色透明になってとどまらないとダメなの。
本当の無色透明になる勉強。本心の自分は、無色透明の透明人間だから、全てが自分の中を循環する。

だから、こういう自分になったら、虚の世界の神がかりも憑依も本当はない。
無色透明のところに何も入ってこないし、憑依も何もしてこない。自分の体が、大勢の神さまのマンションだというのは、まだダメなの。
無色透明でないから。自分の体の外回りを救済の神さまの虚の神さまが大勢護っているのはいいの。
でも、自分の中に入っているようだったらダメ。自分がやっぱり形が残っている。入る容れ物があるの。
自分の体を消さないとダメ。無色透明にしてしまったら、周りを包んで護ってはくれるけど。
虚の世界を救うためにって、お手伝いはしてくれるけど、自分の中を通り抜けて働くのではないの。
憑依も同じ。無色透明のところには憑依はないの。一切、影響を受けない。虚の世界の影響を絶対に受けない。
だから、虚の世界の影響を受けるのは間違いなの。虚の世界を相手にしてしまうから。
虚の世界を一切相手にしない自分が、本心の本当の自分。無条件の幸せ一杯の自分になる。
真の神さまだけしかないって、ここまで行かないと、徹底していかないとダメなの。
 

(平成25年3月30日のお話 第1部A)