真のありがとうございます 

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 この祈りの行って単に言うけど、祈りの行は、沢山の行が含まれている。

 まずどういう行があるか。神さまに心を向ける回向(えこう)の行。神さまの御名を崇める称名の行。
神さまと一対一で出会う対面の行。真の神さまの全てを受け直す感謝の行。神さまを最高に褒め称える賛嘆の行。
自分の全てを神さまにお返しする恩返しの行。神さまの本当のお手伝いに生きる、絶対奉仕の行。
全てをお任せする全托の行。神さまとの本当の交流がいるでしょ、交流の行。与え尽し合いの交流の行。
次はやっぱり、神さまとの本当の一体感を深く深くしないとダメだから、一体感の行。
それで、本当に神さまを愛するという、愛の行。神さまとの差を取っていく、本当の悟り(差取り)の行。
このありがとうございますの行は、今言った12個の行を同時にやっている。だから、大きい働きになるの。
真の神さまの本当のお手伝いをする行。

だから、本心の自分が、真のありがとうございますを駆使できる。一大循環の中に自分を置くことが出来る。
自分の背負ったすべてを一大循環の光の流れで、洗い清めることが出来る。最初の洗い清めるは、もう最初の段階。
次は、大きく、マイナスのない状態でプラスを大きくしていく行。みんなそこまで行く。
与える側の自分の生き方ってそう。それを今目指している。本当の神さまのお手伝いに生きるというのは、小さくではない、大きく。
一人が虚の世界を全部、洗い清めようとする。一人でも大きい働きが出来る。
でも大勢が同時に同じ働きをしたら、すごい大きい働き。だから、一人だけに任せるのではダメ。
みんなが同じ働きをすればいいの。だから、本当に完璧な一体感の行。これが一大循環の働きのすがたそのもの。
本当の支え合いの、さざれ石が巌となっているという、本当の完璧な一体感の行になる。

 一番奥が、絶対の中心から新たに新たに出てくる、一番奥が無限のスピードなの。
大きい乗り物として出てきて、その中の動きは順番にスピードを緩めて、まず虚の世界というのは、一回スピードを止めてしまう。
掴むというのは、止めていること。それでも押し流されるから動いている感じだけど。
だから、この肉体界なんてスピードが遅い。部分だけを見ていたら、緩やかな流れしかない。みんな掴める範囲。
でも、一番奥からの乗り物は、全部を無限のスピードで動かしている。

時間って、過去を掴むから時間。過去・現在・未来って分けるから時間なの。
今全てを捉えていたら、時間はないの、いらないの。真の神さまの世界にはそういう時間はない。
過去・現在・未来って分ける時間はないの。今の中に全てがあるから。ただ、絶対の中心に近いところが本物。
全部を中に収めているから。末端の部分になるほど、小さくなっていく。
そしたら、移り変わりの過程をちょっと掴んだら、時間らしい感覚が出てくる。
虚の世界は、特に時間の感覚が大きくなる。それで時間と空間の相対の両極の姿をとって、時間が短くなったら空間が広がる。
反対に、空間が狭まったら時間が長くなる。そういう原則で移り変わる。

だから、あくまでも本心の自分にとっては、神さまの中に融け入るだけなの。自分が出てきたら、間違ってしまう。
勘違いする。真の神さまだけ、という感覚になってこないと、本物にならない。
神さまに融け入ったら、神さまの働きと同化するから、神さまが与え尽す生き方で、一大循環の相象を取っている。
全てが幸せ、最高の幸せそのものに成りきっている。その循環だから、幸せがどんどん大きく深くなるだけのすがた。

まず、神さまが必要な全部をしてくれている。人のすることは邪魔しているだけ。邪魔しなくなることが本当のお手伝い。
掴んだり、余計なことをするのが邪魔なの。だから、神さまの本当のお手伝いは、一切の我を消すこと。
そのために、神さまの中に融け入ることだけ。元から神さまは全部、全部をしてくれているから、
神さまの働きと自分が一つに同化したらいいだけ。それが最高のお手伝い。

 この虚の世界の日常の中でも、一瞬一瞬を切らないとダメ。掴まないで一瞬一瞬を切り分けないとダメ。
一瞬一瞬、変化しているという風に。そうしないと、連続して見ていると、残像の繋ぎ合わせになる。
一瞬で全部が置き換わっているという風に見ること。

 神さまの現れという風に眺めるのでもそう。新たなすがた、新たなすがたという風に、一瞬一瞬を切り分けて眺めないと。
それがところてん式に連続してもいいのだけど、古いすがたって見るのは間違い。
過去を掴んだら、もう残像だけで生きているの。新しいのは全部見逃している。一回掴んだだけで終わっている。
一秒後、無限に変わっていてもわからない。常に新しいすがた、新しいすがたって受け直さないと。
本当の神さまのすがたではないの。

すべて神さまの現れと見るのだったら、一瞬一瞬全部に大きい変化があるって受けないと。
だから、もう人がどうこうではない。神さまの変化が無限に変化しているから。
その変化についていくということが、一番大事なこと。だから、新たに新たに、無限の変化についていかないとダメ。

それも自分が小さくなったら振り回されるから、できるだけ大きく大きく眺めて、受け直す。
そしたら、振り回されなくなる。小さくなったら、振り回される。だから、できるだけ自分の意識を、気持ちを、
絶対の中心の側に置くように眺める。一大循環の中へ立たないとダメ。奥まで行かなくても、循環の中の末端でもいいけど、
立ったらわかる。押し流されたらダメ。そこへ立ち続ける。そしたら、その変化がよくわかる。
光の流れの変化がよくわかるから、一瞬一瞬のものすごい変化に圧倒されるのではなく、
本当に、その素晴らしさによく気づくようになる。

万華鏡がある。板ガラス三枚鏡合わせて、中へ千代紙なんかを放り込んで、
これを回転させたらものすごくきれいに見える。神さまの動きは、あの程度ではないの。
もう螺旋の動きで、色んな要素がもう、目まぐるしく輝いている。お互いに鏡になったりして、色々しながら輝くから、
すごい表現。そういうのを眺めるような感覚が、一番掴まなくて済む。眺めるという見方でね。同じ一つのものでも、すごい変化。
鏡がたくさんあるだけで、映すだけですごい変化。鏡を回転して、動いていたら、もっとすごい。

 神さまの表現のすごさって、想像を絶するくらい素晴らしいから、眺めるだけだったら、絶対掴んで捉われない。
だから、大きく眺める生き方が大事。それを本心の自分は、自由自在にできる。本心の自分は、形ではない。意識。
神さまの自由自在な意識。形があるものは、これが自分って掴んだら、一瞬一瞬変化しているから、自分でなくなる。

今Aというすがたを現わした。次Bというすがたになった、別人じゃない?形に捉われたらみんなそう。
形が変化したら、もう自分ではないの。形の変化と関係ない自分、本心の自分、本当の自分。
それが永遠に変わらない自分は、自由自在な意識の自分。この自分は何でも掴めるけれども、何も掴まないで、
全体を眺めることも自由にできる。だから、自由自在に立場を変えて、眺めるだけの自分がいい。掴まない自分。
そしたら、全てを眺めて楽しむだけ。そこまで行かないと、神さまが与えてくるものを味わえない。
お菓子ぐらいと思っていたらダメ。一個お菓子をもらって、ありがとうと食べた、味わった、これではダメなの。
何にも受けてないのと同じになってしまう。神さまの移り変わる表現を味わうという方が大切。

だから、常に全体を大きく眺めて、掴まない心で眺めて楽しむ。それだったら虚の世界を眺めても、何のマイナスも感じない。
相対の両極に分かれて色んな組み合わせで、色んなものが表現として出てきても、これも一つの舞台の演技のようなもの。
プラスのいい役、マイナスの悪い役、悪玉ってあってもいい。どちらも楽しむための舞台の演技のようなすがたをとる。
そしたら、どこにもマイナスなんか感じない。だから、大事なことは、大きく眺められるかどうか。
それで、立場を自由にして、押し流されないこと。

一大循環の流れと一緒に流れるというのは、あまりいいことではない。押し流されていることになるから。
末端まで飛ばされてもダメだし、循環して戻ってもダメなの。全体を大きく眺める方が大事。
だから、どの立場に立っていてもいい。そこで全体を眺められたらいい。そういう自由自在な自分がいい。


(平成25年3月23日のお話 第1部B)