真のありがとうございます 

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Q:「祈り言葉について。同じ祈り言葉を実感できるまで言い続けることがよいのか、
言いすぎることによって掴みにはならないのか」

A:祈り言葉を唱える自分が、本心の自分か業想念の自分かで正反対になる。
業想念の自分というのは、過去を掴んで積み重ねて、思いの集積として、業想念が生まれる。
それに縛られている自分は、思いの自分、業想念の自分。それに波の合う言葉は、虚の世界の言葉。枯れた落ち葉。
そうすると、どんどんどんどん積み重なっていく。唱えても唱えても、積み重なる言葉。

本心の方の自分は、新たに新たに受け直す自分。全てを新たに新たに受けている自分だから、新しい自分、常に新しい自分。
過去を絶対掴んでないし、過去を積み重ねることは、絶対にない。一瞬一瞬が新しい自分。
新しい自分に波が合うのは、真のありがとうございます。それは、神さまの全てと波が合っているの。

同じありがとうございますを唱えているようでも、一方は、虚の世界のありがとうございます。
だから、感謝やお礼という程度のありがとうございますしか唱えていない。
本心の方は、新たに新たに、だから、新たなありがとうございますは、神さまの全てだし、神さまそのもの。
一瞬一瞬神さまと出会っているような感覚で、ありがとうございますを唱え続ける。どちらに変わるか。
思いの自分から、本心の自分へ、いつ変わるか。

思いの業想念の自分と、本心の真の自分との区別、どうしたら区別できるのか。まず、過去を掴んだら、業想念の自分。
常に新たに受け直したら、本心の自分。言葉も、プラスでもマイナスでも、過去を掴む虚の言葉では、業想念の自分。
本心の自分は、新たな真のプラス。絶対の中心から降り注ぐ新たなプラスを選ぶ。
業想念の方は、求める心が必ず出てくる。本心の方は、求める心は微塵もない。与え尽すだけになる。これだけでも区別がつく。

だから、もう常にプラスの言葉だけを使って、新たに新たに受け直して、与え尽す側に立ったら本心の自分だから、
その本心の自分は、常に真のありがとうございますに波が合っていくから、祈れば祈るほど本物になる。

だからどちらを選んで生きるか。過去を掴みすぎたら、マイナスの言葉を使いすぎたら、
どうしても思いの自分になってしまう。だから、それに陥らないためには、常にプラスの言葉だけを使って、
新たに新たに受け直す、与える側の自分になったら、それで大丈夫。その違い。


Q:「神さまの全てを受け入れるというのは、具体的にどういう状態を示すのか。」 

A:絶対の中心から、一大循環の相象(すがた)をそのまま受け取ること。
やっぱり言葉にしないと、新たなる無限の無限の入れ子構造の天照大御神今ここに在します、って受けないと。
新たなる全徳の無限の無限の輝きが無限に無限に一杯って、これも無限のスピードで循環しているすがたで受ける。
本当の一大循環の相象で受けないとダメ。

そしたら、神さまを新たに新たに受け直していることになる。これは、練習がいる。一瞬も油断できない。
新たに新たにというのが、もう真剣勝負。ちょっと油断したら惰性に流れる。掴んだままで終わっているの。
一瞬受けて、全部放してないとダメ。掴んでいたら、もうできない。一瞬に受けて全部放して、また一瞬に受けて全部放して。

宇宙大の打ち上げ花火がポンと上がるとする。一瞬全部闇にならないとダメなの。
それでまたポンと上がって、また闇になる。それぐらいの切り分けがいる。
連続しているのだけど、一瞬闇に戻すくらいの放し方が必要。ダブらせたら、残像で繋がってしまったらダメ。
切り分けて、新たに新たにって、ところてん式に繋がっていても受け直す、その真剣さが大事。
そしたら、真の神さまを受け直したことになる。

でも、一回見たから受けたのと違うの。一回ではダメ。もう連続して、ずーっと受け直さないとダメだから。
それで、ありがとうございますも、一回のありがとうございますに無限のありがとうございますが備わっていないと、
もう一つ無限の無限のありがとうございますが必要なのは、入れ子構造的に全部に行き届くため。全部に心を向けないとダメだから。

だから、沢山のありがとうございますで、確認しないとダメ。
それも入れ子構造的なありがとうございますで、確認しないと、入れ子構造のすがたは確認できない。
ありがとうございますの一言の中に、無限の無限のありがとうございますが備わってこないと。その練習をするの。
本心の自分は、真のありがとうございますを唱える練習をずーっと続けて、
その一回のありがとうございますに、無限のありがとうございますが備わるようになってきて、
更に無限の無限のありがとうございますが、一回のありがとうございますに備わらないとダメ。
備わってくるように練習するの。それで本物になっていく。

だから、真のありがとうございますを唱えたから、それで卒業ではない。そこが出発点。
無限の無限のありがとうございます、入れ子構造のありがとうございますになるまで、祈り続ける。

末端から順番に絶対の中心に戻って行かないといけない。末端だと、まだ小さい受け直し。
絶対の中心に近づくほど、無限の無限のありがとうございますが備わったありがとうございますを唱えるようになっている。
それで絶対の中心に立った自分というのがわかるの。何も掴まない自分。何時も眺めるだけの自分よ。
だから、全体が、全部が自分という自分。一番幸せな自分なの。


(平成25年3月23日のお話 第1部@)