真のありがとうございます 

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 この命を神さまの御用にお使いくださいって投げ出すことが、やっぱり絶対必要。
真の神さまへの弟子入りってそう。弟子になるというのは、そういう意味。自分の全てを神さまに捧げ尽くす。
これが一番の喜びでないとダメなの。なにか条件を付けて、弟子になってあげるのではないの。
もう、弟子になることが喜びそのものなの。だから、なりたいって、他は何もいらないって、ここまでいかないとダメ。
本当に神さまを恋い慕うという感じ。神さまの懐へ飛び込みたい。神さまの絶対の愛の中に飛び込みたい。
融け入りたいって、これだけが本当の願いでないとダメ。本心の自分は、元からそういう願いを持っている。

本心の自分を生きるようになったら、自分の全てを神さまに捧げようとする。捧げることが幸せそのものなの。
その自覚・実感が大きく深くなっていく。これは求める心や受ける心ではできない。
自分の全てを与え尽して、初めて可能になってくる。ありがとうございますの、この唱え方もそう。
与える側のありがとうございますが本物。与える心でありがとうございますを唱えたら、無限倍のバックアップが来る。
常にそう。自分のこの自由自在の意識が大きくなればなるほど、入れ子構造の無限倍の助け。常に全体と共に祈るの。
真の神さまと共に祈る祈りになる。

 だから、ありがとうございます、一回自分が唱える祈りではダメなの。一回唱えても同時に無限倍になってないとダメなの。
更に、その無限倍になってないと。バックアップを受けた祈りが常にそうなの。祈り方が大きく変わったの。
無限倍の入れ子構造的無限倍のバックアップを受ける祈りに変わったの。
一回ありがとうございますを唱えることが、同時に無限のありがとうございますになっている。
無限の無限のありがとうございますになっているの。

 だから、威力があるようになった。お祈りって、威力がなかったら値打ちがないの。気休めではダメなの。
自分の心が安らいだ、この程度ではダメ。どんな問題でも瞬時に解決するくらいの威力がないとダメ。
祈り言葉は、常に断定的に使わないと威力は備わらない。ちょっと疑っているようではダメなの。
常に断定的に使うの。真の神さまだけなのだっていう風に、本当に断定的にありがとうございますを唱えないとダメなの。
一大循環の相象しかないんだ、ありがとうございますって唱える。常に、断定的に使う。
言霊のありがとうございますの、この全ての意味を、断定的に使う。

そしたら、真の神さまだけ。真の神さまの愛だけ。本当の降り注ぐ真のプラスだけ。一大循環の本当の凄い働きだけ。
もう虚の世界なんて無限に無限に小さくなってしまう。別にあってもなくても、どちらでもいいのだけど、消そうともしない。
あっても構わないって。実の世界があまりにも大きすぎるの。偉大すぎたらそうよ。
無限分の一のものはどちらでもいいこと。本当はもっと小さいの。

 だから、わざわざ虚の世界を消そうともしないのはそこよ。一夜の夢くらい見さしてあげようかという感じ。
本当は、目を覚まして幸せ一杯に、楽しんで生きている方がいいのだけど、眠る一秒も惜しいというくらいがいいのだけど。
ちょっと眠くなって夢見るぐらいは構わない。それが虚の世界。

真祈りの凄さは、やっぱり自分が実感するまでわからない。だから、ありがとうございますを唱え続けるしかないの。
唱え続けて、唱えるのでも、この命、自分の全てを捧げますって、いつもいつも捧げ続けないと。忘れたらダメよ。
毎朝、弟子入りする。私の全てを神さまに捧げます、どうか神さまの御用にお使いくださいって。
そして、神さまと共に祈るの。神さまが自分を使ってくれる。神さまの光が自分を通して放射される。
一大循環の相象となって、神さまと共に生きるの。自分が一大循環の相象をとらないと、神さまのお手伝いではないの。
だから、全ての全てに対して、愛を与え尽すだけの一大循環の相象を真の神さまによってとらせてもらうの。
それが真の自分になるの。

虚の世界だけがばらばらに見ているの。自分と他人という風に、ばらばらに見えるのがそう。
真実の世界は、ばらばらに絶対見えない。みんな一体化している。無限のスピードで動き回っているのを、
分けるわけには絶対いかないから。常に、全体から支えられているの。全体を支えているすがたで、自分も全体へ光を送っている。
お互いが助け合って、支え合って一つになっているから。微塵も、自分と他人と分けられない。
だから、全部が自分。全てが真の神さま。絶対区別しない。ここがすごいの。
だから、ありがとうございますになってしまう。一言のありがとうございますで、全てなの。

本当の一大循環の相象が、ありがとうございます。言霊のありがとうございますの意味そのものがそう。
無限のスピードで循環するすがた。本当の完璧なすがたよ。普通の完璧って、水晶玉、ダイヤモンドみたいに、球みたいに、
静止したすがたに、みんなイメージしてしまうけど、これが無限のスピードで動き回っている流動体としてのすがたでないと、
神さまの完璧さではない。神さまの世界は、静止した分なんて、完璧のうちに入らない。どれだけ素晴らしいものでもダメなの。
無限のスピードで動いているから、完璧なの。本当の完璧。

だから、虚の世界の完璧という言葉と、真の神さまの世界の完璧という言葉は全然違う。
同じ完璧でも、真の神さまの指す完璧は、無限のスピードで全部与え尽し合っているすがた。
部分と部分に分けられない。切ったらおしまい。半分に割ったら二つに分かれるの。
静止したものは、全部そうなの。だから、完璧にならない。絶対切り分けられない、無限のスピードで動き回らないとダメ。
これが本当の完璧になるの。だからこそ、みんな一体なの。

真祈りの本当の凄さを、これからみんな順番に実感させてもらうのだけど、
ますます神さまに命を捧げて、祈りに祈るの。感謝の真祈りって、本当の幸せへの最短コース。他の言葉では無理。不可能。
このありがとうございますって、真のありがとうございますに出会えた人はどれだけ幸せか。
祈り続けた人に、必ず結果として出てくるから、必ずわからせてもらう。特に、ありがとうございます護摩が、バックアップしてくれる。
自分一人の祈りだけでは、やっぱり時間かかるからって。本当の支え合いのすがたをもって、神さまが応援してくるの。
大きい応援をしてくれるのが、ありがとうございます護摩。ただ自分が自由意志で選ばないと受け取れないから、
ありがとうございますを選んで、護摩焚きに参加する生き方を選んで、やっぱり自由意志を自分が発揮しないと。
神さまは絶対強制力を使わないから、最後は一人一人の自由意志で選んでこないとダメ。そしたら、誰でも助けてもらえる。



(平成25年3月9日のお話 第1部A)