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本当の自分、本心の自分、自由自在心。自由自在心というのは、どこへでも自由に立場を移せる。
どこへでも、どんな立場にも立てる。一つの立場にも立てる。無限の立場にも立てる。絶対の中心にも立てる。
末端にも立てる。もう自由自在なの。本心の自分は、そういう自分。与える側にも立てる。受ける側にも立てる。
もうありとあらゆる場に立てるの。その自分が本当に、神さまの愛を感じ取れたら、神さまと同じ立場に立とうとする。

神さまの立場って、どういう立場か。神さまは与えるだけ。与える立場だけかというと違う。
全ての立場に立っている。受ける立場、全部に立っている。与える立場もそう、絶対の中心から大きく与えていく。
入れ子構造の天照大御神さまの働きとして、順番に与えて与えて与えて与えてって、ずーっと与え続けているの。
絶対の中心が一番大きいから、大きいものが枝分かれして、順番に、ずーっと与え続けているの。
その一段階ごとに、全てに立場を移していくの。絶対の中心の立場も無限にあるの。
一方向ではないから、全方向だから、無限の立場があって、そこから順番に、入れ子構造の段階を降ろしていく。
すると一つの大きい立場から、無限に分かれる。それが無限になっている。無限のものが無限に分かれるの。
また一段下がったら、また無限に分かれる。

それを繰り返し繰り返し、立場がどれだけ大きくなるかわからない。沢山増える。全部の立場に立つの。
ありとあらゆる立場に立って、与え尽している。与え尽すだけを見てもそう。
一番末端まで行ったらどれだけ凄い立場に立ち続けてきたか。言葉で表現できない。
それぐらい神さまの愛が、大きい深い。無限を無限に連ねないとダメ。言葉で表現できない底知れない愛の大きさ・深さ。

それも与える側というのは、一番必要なものを的確に与える。受ける側の全てを把握しないと出来ない。
受ける側、どんな受ける側に立っている人も、その人が何を必要としているか、しっかりと見抜かないとダメ。
的確に見抜いて与えてくるの。そしたら、受ける側に、全ての受ける側に立っている。
同時に、与える側に立つ。それも大事だけど、受ける側にも全部立たないと、必要なものは与え尽せない。
まず受ける側にきちっと立ってくれている。何が必要かって見抜いてね。一瞬後、また何が必要かって見抜いている。
先までずーっと見通しているの。

だから、常に全ての立場に立って、与え続けてくれているの。それが真実の世界だけではない。
虚の世界に入ってもそう。虚の世界の一番上から一番下まで、すべてに渡って、必要な物を与え尽してくる。
だから、直接の愛でなくても、何かを通しての愛でも、やっぱり必要な愛を与えてくる。
虚の世界だと、直接だったら、あまりに強烈過ぎる。だから、何かを通して、波を合わして、そこに必要な光を注いでくる。
愛の光を一杯注いでくる。それも一つだけからだったら足りないから、全てを通して一人の人にでも注ぎ込む。
だから、一人の人に対して、この神さまの愛がどういう風に注がれるか。もう全てを通して注ぐ。
真実の世界の全てから、虚の世界の全てから、全てから、一人の人に神さまの愛が注がれてくる。
これを受け取って気付いているかどうかは別にして、間違いなく的確に与え続けているの。

これは、光を与えるだけではないよ。マイナスを背負うのも与えているのと同じ。身代わりに背負うこともそう。
愛を与えている。何か必要なものを与えるのもそうだけど。
根本は、この神さまの愛が、背後にバックにあって、それをしてくれている。
その底知れない大きい深い神さまの愛にちょっと気付いただけで、もう涙が滝のように流れるはず。

そしたら、真の神さまだけってなる。真の神さまの愛のすがただけ。
だから、真実の世界に上らないと気付かないのではない。地獄のどん底でも気づく。
そしたら、どの段階にあっても、恩返しになるの。神さまの愛に気付いたら、恩返し。
もう報いを求める心なんて起こらない。微塵もそういう求める心は、出ない。それが本当の恩返し。

 本当の自分の自由自在心、これを忘れると本当は良くないの。最初は、一つの立場を掴んでしまう。
一つの立場を掴むということは、その立場をしっかりと勉強しているという風にも言える。掴み続ける。
これも、もう一つしっかり勉強し続けているとも言える。だから、一つのものをプレゼント受けても、
とことん執着して掴み続けて、味わっているって言える。ガムを一つもらったら、味が無くなるまで噛み続けるって。
これも悪いことではない。適当に、ぱっと捨てればよさそうなんだけど。
とことん味わい続けるというのも、ガムを味わうという意味では、必要かもしれない。

だから、本当は執着して悪いのではない。ある意味では、執着することで、しっかりと掴むことで、勉強しているの。
でも、そればっかりしていたら、いつまでもそればっかりだったら困る。一つや二つはしてもいい。
でも早く立場を自由自在に戻さないと。

自分が一人で何でも体験しようというのは間違い。一人で体験できることは限られてしまう。
だから、自由自在心というのは、みんなと共に、みんなの体験を自分のものにしないとダメだから、
それで本心の自分は、全てに自分を与え尽して、相手と一体化する。相手と一体化したら相手の全部わかる。
相手の体験、全部自分の体験になるの。

これは、受ける方だけではダメなの。与え尽す自分にならないと。真の神さまのように、全てに対して自分を与え尽す。
まず自分が大きい光、光源。光源の自分を全部に与え尽す。与え尽した相手が全部自分になるの。
与え尽した相手と融け合って一つになれるの。相手のものを受けても、相手と一体化するのではない。
相手の一部を受けただけ。自分を与え尽したら、相手に成りきれる。
だから、光の自分が相手に与え尽して、相手と一つに同化して、一体化して、相手そのものに成りきるの。
それで、全ての立場の人を、自分の立場として取り込めるの。そしたら、全ての立場に自由自在に立っている。
すべての体験が自分のものになる。味わい方が大きくなる。

本心の自分の生き方が、本当は元からそうなの。ただ、過去を掴んで、虚の世界に転落して、
しがみついてしがみついて、執着して執着してって、色んな体験をとことん味わい尽くす。これもちょっとはいいの。
そして謙虚になるほど、本当の価値が見いだせるようになる。その両方を、みんな本当は同時にした方が楽なの。
虚の世界も体験したらいい。いつも全体の中心から出発する自分もいいの。


(平成25年3月2日のお話 第1部A)