真のありがとうございます 

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 大事なのは、みんなで支え合うというのが大事。真の神さまの世界は、みんな本当に支え合っているから、
一つになっている。救いに立つのでも同じなの。神さまが救いの網を入れてくれる。救いの網って、具体的に何?
みんなで、共同作業で助けに降りている姿。段階ごとに、次元ごとに、みんなが手を携えて、手を繋ぎ合わせているのが救いの網。
支え合っている姿が網なの。だから、網が何重にもざーっと張られている。
それで、みんなが上から下へ堕ちにくく、クッションになっているわけ。
上がりたい人は、速く上げてもらえるし、堕ちるのでも堕ちにくくしてもらっている。単に物の網があるのとは違う。
この救いに立つみんなの、手を結び合えた神さまの光のネット。大勢がこの救いに立って手を携えたら、
大きい強力なネットが出来上がる。誰も落ちこぼれがないようにできる。

 虚の世界でも、段階ごとに色んな救いに立つ姿がある。一番上から直接降りるのではない。
色んな段階からそれぞれに自分の勉強を兼ねて、みんな助けに降りる。
だから、普通は菩薩界、仏界からは、どんどんどんどん助けに降りる。助けに降りて、自分も助けてもらう。
まだ声聞、縁覚だとまず自分が力をつけないとだめだから、まだ降りないけど。
それでも、自分より身近な下は助けようとする。上から助けてもらいながら、身近な下の人を助けるのだけど、
大きく上から降りるのは、菩薩とか仏様。そういう心境でないと降りられない。
だから、菩薩が仮に降りたら、一回思いを全部背負って降りて、消して上がったら、自分の階級は上へ上がる。
それがどこまで上がるかは、その働きに応じて変わる。全部が真実の世界へ上がるのと違う。
どれだけの働きをしたかで、プラスが加わっていくから。

真実の世界へ上がるというのは、そういう波を背負って、思いを背負って消した、その程度ではだめ。
本当のお祈りをして、大きいお祈りを与える方がもっとすごい。僅かな思いを消す、身に受けて消すようなのと、
大きい光を振りまいて、大きくあの世の全部に光を届けるのとは、全然違う。
だから、自分の働きに応じて、比例して上へ上げてもらうから、本当のお祈りを真剣にさせてもらわないと、大きい働きにならない。
だから、みんな助け方が違う。色んな助け方が全部降り注いできているけど、どういう助け方があるかってみんな見極めないと。
全部同じではない。段階ごとに全部違うし、その一つの段階でもみんな降り方、助け方が違うから、
ありとあらゆるいろんな助け方が一杯ある。

 守護霊さんもみんな修行におりているの。この世の人を護りながら、自分も力をつけてどんどん上へ上がっていく。
守護霊さんの場合、一人の人を一生つきっきりではない。でもそういうふうに短い時間でするといったら、
それも高いか低いかいろいろある。高いから短い時間で終わって帰って行くかもしれないし、
でもまだ力がないから、短い時間で済ましてもらっているかもわからない。いろいろ。

でも大事なのは、今の自分が、どの段階の自分にでもなれるという事。それはもう、言葉選び一つ。
真の神さまが真の自分、ありがとうございますって真剣に唱えたら、本心の自分を生きるの。
どれを選ぶかは1人1人の自由だし、それを真剣に選んだら、即そのままその通りになる。
下から上へ順番に上がらないとだめって言うのも一つの生き方だけど、新たに新たにって言う場合、上から下に降りるの。
過去を掴むか、新たに受けるか、これも人の自由で選ぶ。だから、言葉選びが一番大事。
この生き方を自分は選ぶって言うのだったら、言葉をしっかり選んで、それを繰り返せばいいから。
今、自分はどこにいて、どういう生き方しようかって言葉で定めているだけ。

真実の世界は、因縁因果なんか無い。必要ない。まず過去、現在、未来がない。
今の一瞬、全てが完璧。過去があって、現在があって、未来があってという移り変わりがない。
常に今が最高の状態で、流れて移り変わっているだけだから。時間、空間がもう必要ない。
空間っていうのでも、みんな空間っていったら、止めて見る世界。無限のスピードで動く世界を空間なんて言わない。
全部が無限のスピードで動いていたら、空間なんて捉え方はできない。時間も同じ。
過去、現在、未来って引伸ばした世界ではだめなの。全部一つになっていないと。
時間は過去を掴めるから、時間になるの。体験の連続として。これだけ体験したという過去を掴めるから、時間になる。
無限のスピードで動き回るのは、掴めないから時間はない。時間という感覚は生まれない。
だからここが、真実の世界と虚の世界の大きい違い。

 仏の世界は、みんな低い世界。虚の世界、模型の世界。時間と空間のある世界。
ただその同じ虚の世界でも、上ほど時間が短い、空間が広い。下ほど時間が長くて、空間が狭くなる。
これも時間と空間、時空一如の原理。反比例の姿をとっている。空間が広がると、プラスばっかり。
時間が短くなる。逆に、時間が長くなった時は、穴に入りたいという、空間が狭くなるってね。

でも、ありがとうございます一言唱え続けるだけで、これが一番いいの。自由自在の心になるの。
上から、絶対の中心から眺める事も自由だし、一番下から、虚の下の、地獄のどん底から眺めるのも自由だし、
自分の立場を自由自在にできるの。上から大きく与えるのもいいし、下から大きく受け直すのもいいし、
自由自在の心になれるのが、ありがとうございます。ここでもやっぱり、実行、実践、実践躬行って、自分がしないとだめ。
自分が行っただけが、自分のもの。

ありがとうございますも同じ。同じありがとうございます、どんなお祈りを、どんなありがとうございますを、
自分が実行して祈っているか。自分のした事が自分のものになる。だから、人は無関係。他は無関係。
自分がしっかりと実行して、実践して楽しんだらいい。何を受け取るかって、自分一人一人の自分に任せられた自由。
真の神さまから一対一で何を受け取るかって、これだけなの。神さまと一対一の関係で、何でも受け取れる。
どんな受け方でもできる。言葉通りに。それが真実のプラスだったら、真実を受け直せるし、虚の言葉だったら、虚の世界だし、
マイナスの言葉だったら、マイナスの世界だし、これ全て言葉通りに受け取れる。

 だから、真の神さまと一対一の関係だけ。これを踏み外したらだめ。
あの人はマイナスの受け方している、私はプラスの受け方、そんなのはない。
もしマイナスに見えたら、自分がマイナスに受けているの。全部そう。
自分がプラスに受けると言うのだったら、プラスだけの世界になるの。真のプラスだけって言ったら、真実の世界だけ。
常に真の神さまから、自分は一対一で自分の言葉通りに受けているっていう、これが根本。
絶対の中心から入れ子構造のすがたで、真の神さまの愛は真実の世界へ降り注いでいる。
虚の世界も、全体から真の神さまの愛の木漏れ日の光が、一杯降り注いでいる。もう全部がそうよ。
全体が真の神さま。全体から自分一人に向けられている。ただ向けているのと違う。自分一人に神さまの愛が全部向けられている。

 今度は、自分が神さまの側に、与える側に立った時、どう見えると思う。全部に愛を与えないといけない。
今度は自分が、全部になって与えるの。例えば、一人の人に愛を与えるという時に、
一人の人に対して、自分が全ての姿をとって、色んな段階の姿をとって、そこへ光を与えるの。神さまと一緒になって。
だから、常に一人を相手にしている。受ける時も神さまと自分と一人だし、与える時も神さまが一人に対して与えている。
この一人が自分。だから、神さまと自分と一対一でやりとりするの。与える時も受ける時も。
それでなかったら、神さまと自分が一体なんて言えない。バラバラで分かれたものだったら、一体になれない。
だから、呼吸と同じ。ありがとうございますね。吸う息、吐く息、与えるの、受けるのってね。
ありがとうございますは、常に常に両方、同時に交互に、常に循環していくの。
それが真の神さまだけという意味。真の神さまだけという意味は深いの。捉え方がいろいろあるけど。


(平成25年2月16日のお話 第1部C)