真のありがとうございます 

 

群盲象を評すという言葉があるけど、群盲、本当に心の目を開かないと何もわからない。
象は、本当は真の神さまのこと。真の神さまを正しく知るためには、本当は表面を撫でるだけではわからない。
象にならないとダメ。自分が象になり切って、真の神さまになり切って、本当の意味が初めてわかる。

今日はちょっと一番上の方からのヒントをまた与えておこうと思うんだけど、真の自分、一切の我のない無色透明の自由自在心、
本当に、真の神さまが真の自分っていう風に受け直した時は、自分は無色透明の自由自在心だけど、
残りに無限の無限の一切の我のない無色透明の自由自在心のみんながいるの。
その時に、真の神さまは自分を含めて、無限の無限の自由自在心の全てを自分と見ている。

真の神さまが真の自分という本当の自分は、残りの全部、無限の無限の意識あるもの全部が、自分と見るの。
みんな自分。その自分に、真の神さまを与え続けるの。そしたら本当の幸せな自分。自分一個だけが自分だったら小さい。
同じ神さまから循環してくるすがたを受けても、一つの意識が受けるものは小さい。
それが無限倍になり、更に無限倍になると、大きい、本当の自分。これが真の神さまと本当に一対一になっている自分。
ぴたっと真の神さまになり切った自分。一番根本がそこ。

だから真の神さまの意識は一つではない。無限の無限。それを全部一つに束ねたのが、本当の真の神さまの意識。
この意識の自分が本当の真の自分の意識。これを根本に置いたら、本当の自分が何をしようとしているか。
みんなに本当の幸せを与えて、みんなっていうのは自分、本当の自分に、全ての幸せを、本当の一番大きい幸せを与え続けて、
幸せを循環させている。そして味わい続けている。与え続けることで、味わい続けるの。永遠に循環させる。
スピード速くするほど、幸せの密度が濃くなる。与え続けることが、幸せを味わい続ける一番の秘訣になる。

一瞬、与え続けることを忘れた時、どうなるか。忘れた時に止まってしまっているの。与え続けるのを忘れた時に止まる。
掴むっていうけれど、止めたのが残像を掴んだこと。与え続けるのを忘れたことが、止めて掴んだこと。
それで、残像になるの。それで虚の世界に堕ちていく。

それで、仏界・菩薩界は、まだ与える生き方を取る。残像を与えているの。本当の自分の名残が、仏界・菩薩界にあるわけ。
それで自分の全てを与え尽そうとするの。仏界・菩薩界は報いを求めず与え尽そうとする。
一切の報いを求めずに、自分の持っている全てを与え尽そうとする世界が、仏界・菩薩界。与え尽して、与えたら無くなっていくから、
どんどん小さくなっていく。循環じゃないから。残像の世界は、与えたら無くなっていくから、与えるものが少なくなると、今度与えるものが無くなる。

この時に、受ける生き方に変わってしまうの。その辺に散らばったものを受けようとする。小さいものだけど、
それでもプラスが散らばっているのを受け取ろうとする世界。これが受ける世界。
受けるプラスが無くなった時に、もう一つ下に、プラスがないから求めるマイナスの世界がある。
そこでは、プラスを体験しようと思ったら反対に、マイナスの助けで、プラスを受け取るしかない。

だから借金を背負って、片一方でプラスを受けるの。これが、求める世界、六道の世界。
これがずーっと下までいろんな形を取りながら、地獄まで行くの。だからどんなプラスも借金のお蔭のプラス。
必ず借金返しがついてくる。その借金返しがどうしようもない、出来ない状態になったところが、餓飢道とか、地獄になる。
借金させてもらうところはまだ、餓飢道より上なの。自分がまだ動いて働いて、手に何かを入れようとしているから。
まだ働いているから。畜生道にしても、精いっぱい食べ物探し回って生きようとしている。

餓飢道になると働くことを忘れるの。動かなくなる。借金返しをしようとしなくなる世界、出来なくなる世界。
地獄というともう一つそう。借金返しもしようとしない。返さないのだったら、今度苦難を背負うかってなるわけ。
そうしたら、ちょっとでも動く、動けるようになるだろうって感じ。それで針の山に乗せられたら、痛いから動き出す。
それでもまだ動かないと言うのだったら、本当の氷の中に閉じ込められたら、どう感じるか。
餓飢道で自分が怠けて動かない状態と、氷の中に閉じ込められた状態の八寒地獄がどう違うか。

怠けて動けないのは、まだ自由に体が動く。これは苦しみがないの。でも本当に閉じ込められた苦しみは、無限の苦しみ。
身動き一つ出来ないという、意識だけがそこにあって、本当に身動きできない八寒地獄は、もう最高の、最大の苦しみ。
痛みも痛みどころではない。痛むっていうのはまだいいの。そういう色んな段階をずーっと下っていくわけ。
そうしたら本当の与え続ける自分がどれだけ幸せかってなる。八寒地獄に堕ちているままでいいのか、
それとも本心の自分として、真の神さまを全てに与え続ける自分がいいのか、どれを選ぶか。
この全体像をしっかり地図として掴んで、その時に自分が何を選ぶか。どの生き方を選ぶか。

求める心を生きて、小さい幸せを求めて、苦しみ続けるのがいいか。本心の自分を知っていたら、そんなことは出来ない。
受ける生き方もいや。自分のものを与えるのも、小さいからいや。本当の、真の自分に戻って、少なくとも、
真の神さまを与え続けるこの自分に戻りたい。更に、一番奥へ、上に立って、全体の全ての全ての意識あるものに対して、
真の神さまを与え続ける、本当の大きい自分の生き方を取りたい。

そしたら真の神さまだけになる。本当に自分だけ。AさんBさんCさん、そんなのはない。ただ、真の自分だけ。
真の神さまが真の自分っていう、真の自分だけがあるの。最初から最後までそう。
ここへ戻ったら、本当の無条件の幸せが湧き上がってくるようになる。だからこの、全体を把握する地図がいる。
無知っていうのが、一番の最大の罪になるから、色んな知り方、勉強の仕方を全部取り込まないとダメ。
ありとあらゆる方法で、知ることが必要。本当の勉強は、真の神さまを知る勉強、理解する勉強。
真の神さまとは何か。根本の命題がそれ一つ。それさえ出来たら、真の自分に戻るの。これがまず、次の勉強会へのヒント。


(平成25年12月21日のお話 第1部@)