真のありがとうございます 

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 因縁因果の法則がある。不昧因果、不落因果、不動因果ってあるのだけど、
この不昧因果って、因果眩まさずというのが、本当にわからないとね。例えば、親子があるでしょ。
親子の関係って、親と子は別だと思うかもしれないけど、違うの。親と子は一つなの。一体なの。因果も一体なの。
親がマイナスを持っていたら、子も同じマイナスを持っている。同罪なの。

なぜかというと、真の神さまと本心の自分とは、元から一体なの。だから、真の自分が真の神さまをどう見るか。
どのように見ても、見た通りのものが、それが自分なの。大きく見るのも小さく見るのも、プラスに見るのもマイナスに見るのも、
自分が見たことになる。見た通りのものが、その時の自分。根本がそこにあるの。
だから、今の自分の親を見るときに、真の神さまを今の親に見ているわけ。そうすると、親が本当は自分なの。
根本は、真の神さまをそう見たというだけなの。この世の姿の場合は特に、女の子は男親を見たらよくわかる。
お父さんが女の子の姿を現す。また長男も、父親の姿を現す。男で次男以下は、お母さんの姿を現わす。
親に現れてなかったら、もう一つ上のおじいさんおばあさんに出てくる。

この世で一緒に、親を選んで生まれてくる。本当に波の合うものしか出てこられない。
波が合うから親子になれる。ぱーっと波が合っているの。親子って、どこかで波が合って、似ている。
もし似てなかったら、子供は、おじいさんおばあさんに似ている。

だから、もともと自分の持ってる波と合うところへ出てくるの。波が同じという意味よ。
だから、自分の親は、前生の自分と見ないとダメなの。おじいさんおばあさんは、前々生の自分。

それで、その自分の姿を鏡に映して勉強しているの。鏡に映さないと見えないから。
だから、親がどんな姿をとっても、前生の姿と見たら、この世の自分が前生にマイナスがあったら、
マイナスを消さないといけない。例えば、親が自分のお祈りを邪魔したとする。親が邪魔しているのではない。
前生の自分が邪魔しているの。自分の思いが邪魔している。まだ自分が神さまに全託できていない。
神さまに命を投げ出してない。まだ弱いところがあるというのを教える。

 本気で、神さまに命捧げてお祈りしますって、自分が本当に決めたら、前生の自分が消えるの。
邪魔する思いが全部消えるの。真の神さまが出てくる。この前生の自分を変えるのは、拝まないと変えられない。
前生の自分を真の神さまって言わないとダメなの。自分が真の神さまって受けないとダメなの。
真の神さまは、お祈りに生きてほしいの。神さまのお手伝いをしてほしいの。
だから、お祈りすることを、神さまのお手伝いをすることを、一番喜んでくれる姿にならないと嘘。
だから、前生の自分に神さまを拝み出さないとダメ。

これをマイナスに見て、文句言ったり責めたりしたら大間違い。まず、一番それをしたらダメなの。
どんな姿も自分の姿って、前生の自分の姿、自分の心にある思いの姿って見ないとダメ。
次に、自分が変えようなんて思ったら大間違い。相手を変えるなんて思ったら絶対に変わらない。反対になるの。
自分を変えるのだから、拝むしかないの。神さまを受け入れるしかないの。
表面を掴んで、マイナスをプラスに変えるなんて不可能。出来ない。マイナスを変える方法は一つだけ。
真の神さまを呼び出すだけ。拝むだけなの。拝み出すだけなの。ありがとうございます、ひたすら拝み出したら、
真の神さまがそこに出てきてくれたら、過去の思いが全部消えるの。鏡に映る姿が全部消えるの。
そしたら、自分が過去を卒業しているの。新しい自分に生まれ変わって、神さまのお手伝いに、お祈りに生きている自分に変わる。

今、親子の関係で説いたけど、夫婦も同じなの。夫婦も一体なの。波が合って夫婦になっている。一体なの。
自分のお祈りを反対したとしたら、また自分が反対しているの。前生の自分がお祈りに反対していることになる。
思いが残っているの、反対する思いが。今の自分はお祈りしたいと願っているけど、
心に溜めた思いがまだお祈りしたくないって反対している。消しきれてないところがある。それも同じなの。
子供が親を拝むように、相手を拝まないとダメなの。真の神さまって拝み出さないと、その思いを消せない。

また弟子と師匠の関係も同じ。自分が誰かに弟子入りしたとする。自分が師匠をどう見るか。
師匠にマイナスが見えたら、全部自分のマイナスよ。師匠に文句を言っているようだったら、大間違い。
自分のマイナスが師匠の姿に映っているだけ。マイナスに見てごめんなさいって言わないといけない。
真の神さまだけ、真の神さまだけ、って拝み出さないといけない。なぜかって、真の神さまが本当の自分の師匠。
本当の神さまを呼び出さない限り、本当の師匠ではない。真の神さまを勝手にマイナスに見ている方が大間違い。
師匠だけではない。周りの全てが同じなの。周りのどこかにマイナスが見えたら、自分のマイナス。絶対そうなの。
自分にマイナスがなかったら、絶対マイナスが見えない。波が合わないから無くなっている。
ちょっとでもマイナスがあったら全部自分のマイナス。

そしたら、ごめんなさいというしかないの。みんな自分のマイナスです、神さま消して頂戴って言わないと。
それで真の神さまを呼び出す。ありがとうございますで、神さまを呼び出したら、消える。どんなマイナスも同じなの。

 これが弟子入りの条件。声聞・縁覚・菩薩って、全部真の神さまの弟子入りの練習なの。まだ本番ではない。
弟子入りの練習。虚の世界の弟子入りは、みんな練習。すべてを真の神さまって見る練習をしているの。
すべてを神さま、真の神さまはプラスだけっていう風に見る練習。それを受け入れる練習。
それで、本当の弟子入りは、すべて真の神さまって、それが本当に分かった時。
そこから神さまとの一体感というのが、無限に無限に大きく深くなっていくの。

だから、元から神さまと自分とは一体、神さまと自分とは一体。真の神さまと真の自分とは一体。
虚の世界でも同じ。真の神さまが助け続けてくれているだけなの。どんな姿も真の神さまが助け続けてくれている姿。
最高の助けとして受け入れるのが大事なの。地獄に堕ちても、閻魔大王になって出てきているようだったら、
自分の心が閻魔さんみたいに怖い顔になっている、怖い姿。本当に閻魔大王が優しい神さまに変わったらいいの。
そしたら、自分の心がきれいになっている。極楽の心になっているの。優しい女神さま、優しい仏様になったら、
自分が極楽の心に変わったの。そしたら地獄が一瞬に極楽に変貌する、すぐにぱっと変わるの。

だから、ありがとうございますで、どれだけ真の神さまを呼びだせるか、拝み出せるか。どれだけ真剣に呼んでいるかよ。
もうひたすら、ありがとうございますで呼ばないとダメなの。呼んで呼んで、呼び続けるだけ。
常に真の神さまの愛の光が、全方向から色んな段階を通って、全てから降り注いでいる。いつもね。
これは、入れ子構造的に降り注いでいる。虚の世界も同じ。入れ子構造的に、重層構造的に、ところてん式に、
もう全方向から、全部降り注いでいるの。ありとあらゆる助けが、常に降り注いでいるの。
それを認めていくだけ、受け入れるだけ。真の神さまの愛だけ。中途半端と違うの。それをするのは、自分自身。

 だから、他に責任転嫁したらダメなの。自分がしなかったら、他に責任転嫁したら、何にも受け取れない。
だから、マイナスの責任を他に責任転嫁する人はダメ。自分の自由意志を全然発揮していないの。
神さまの愛を選び取ろうとしてないの。祈って神さまを呼ぼうともしてないの。それなら受け取れない。
ちょっとでも人のせいにしたらダメ。人のマイナスなんて言ったら大間違い。
どんなマイナスもすべての責任が自分にあると言わないと。どこでも他人に責任を転嫁するって、無知よね、無知。
知らない、何も知らないという意味。本当のこと知らないのが無知。すべて自分のマイナスなのに、気付かないのが無知。
無知というのは歯止めがきかない。マイナスをどんどん積み重ねて、マイナスに堕ちていくの。気付いたらわかるの。
気付いたら人のせいにしない。歯止めがきくの。踏ん張れる。すぐに消せる。

本当の勉強というのはそういう勉強。だから、病気だけではない。どんな問題も、自分の責任って消す勉強。
これがお祈りの勉強、本当の勉強。悟りへの道。枝葉の細かいのをどうのこうのって本当は違うの。
すべてのマイナスは、自分の責任って受ける勉強。それを、神さまが大きい愛で消し続けてくださっているって受ける勉強。
神さまの愛を大きく受け入れて、今度は神さまの愛の中に入って神さまの愛と共に生きる、与える生き方になったら、
全部マイナスが消える。それを具体的に実践する勉強。だから、一番本心の自分に戻りやすい。
こういう勉強をして、自分を鍛え上げていくということが最短コースになる。

本当に自分が真の神さまだけって言ったら、虚の世界はない。本当に虚の世界、全部自分が消しきれたら、
真の神さま、ただ一つだけ、一人だけ。虚の世界の残像なんてもう消えてないから、何もない。
でも、またそういう虚の世界の話があるというのは、まだ消しきれてないだけ。本当は全部いらない。
全部消しきらないと。真の神さまだけになればいいだけ。虚の世界はあんまり大したことない。
もう全て真の神さまって拝みきるだけ。全部真の神さまにしてしまえばいい。

虚の世界を体験する事で、実の世界がより素晴らしく浮かび上がる。病気することで健康の有難さがよく判るようなもの。
虚の世界を体験する事によって、真実の世界がより価値のあるものに感じられる。
だから、自分から選んで降りているという風に、降りたいと思うのも必要。ちょっと虚の世界を体験しようというのもいい。

例えば、現実の世界で絵を描く人がいるとするでしょ。絵なんか描かなくても、大自然が素晴らしい、
そのままでいいじゃないか、と言う人もいいよ。でも、絵の世界も、それを表現してみようって言うのも悪くない。
絵を描く人は、大自然の観察力が鋭くなる。絵を描こうとしたら、大自然をしっかり観察しないと描けない。
しっかり見るという、これだけでも幸せが増える。それを写し出すって、もう一つ正確に見ようとするから、
絵と比較したら、また大自然の素晴らしさがよく判る。だから、無駄な勉強でも何でもない。
自分が勝手に転落するのは良くないけど。それで上から下へ降りる。転落って言わない。
転落したら訳が判らなくなってしまうから、落書きで終わるかもしれないから。
自分が自由意思で選んで降りるのだったら、しっかり速く勉強できる。


(平成25年2月16日のお話 第1部B)