真のありがとうございます 


一対一という関係が、どれだけ大事かをこれから学び始めるのだけど、奥が深い。
順番に段階を追わないと、本当の深い意味は分からない。まず、ABCってあるとする。このABCが、どのABCか。
本当に一切の我のない無色透明の自由自在心としてのABCだったらどう見るか。何も掴んでない。
無限の意識あるものを何も掴んでない。そこに真の神さまを与えると言ったら、みんな同じ。別個ではない。まったく一つ。平等。

ところが、形あるものを掴んでABC、例えば、この世のAさんBさんCさんと掴んだとき、この受け方が全然変わる。
本当に一対一というのは、一番奥の真の自分。一切の我のない無色透明の自由自在心の自分が、真の一対一の関係になっている。
その自分が、一大循環の相象(すがた)の一部を一瞬掴むと、残像の世界に入る
これが自分、これが自分のものって掴んだから、残像の世界虚の世界。その虚の世界でも最初は、全大宇宙が自分と大きく掴んでいる。

この全大宇宙が自分というのは、自分。他人ではない。自分。次に、その残像を、もう一つ小さく掴む。
太陽系が宇宙、太陽系が自分という風に、小さく掴んでいる。全大宇宙に比べると小さい。
全大宇宙の中で、太陽系が自分という自分と、残りの全部があって、残りの方は他人?自分でしょ。
全大宇宙が自分というのは、一段上で掴んだ自分。自分の中の一部を掴んで小さくなったのが、小さい自分。
そこに他人は絶対入ってこない。自分を小さく掴んだだけ。順番に小さく小さく、自分を掴んでいっただけ。残り全部も自分。
より大きく掴んだ自分。一番最初から、一番終わり末端まで、全部そう。一貫して全部自分。

この世に降りてきている人、肉体が自分と掴んでいる人も、全部自分。周り全部が自分。
これがわからないと、自分を、我を消せない。小さい自分の我は消せても、残りの無限の我が、自分のものでなかったら、消えない、消せない。
一段階上の全部を束ねて、無限の我を束ねて大きい我があるとしても、その我が消えない。

全部自分ということがわかったら、神さまにお返ししていけばいいの。
順番に小さい自分から大きい自分全部を、ありがとうございますでお返ししたら、スーッと消えていく。
自分のものだから自分が手放せばいいだけ。ありがとうございますで、自分が掴んでいるのを離したら終わり。
そしたら、全部スーッと消えていく。

ところが、他人と見た時に、他人の自由は縛れない。他人と見た時に、もうそこで大きい自己限定。
大きい縛りをそこでかけている。そしたら、自分では他の無限の我を消せない。だから、永遠に我は消えない。
小さい我も消せないのに、さらに大きい我なんてとても消せない。

だから、一切の我を消して、虚の世界を消すというのは、全部自分という風に、受け直さないと。
虚の世界の全てが、自分が一瞬掴んで、これが自分と掴んだ、その残像が残っていくだけのすがた。
それで、一対一の関係に先ず戻るということが一番大事なこと。真の神さまか、これが自分と掴んだ自分のすがたか、どちらかだけなの。

真の神さまと自分とを一対一の関係において、一つにすればいいの。我の自分は、まだ神さまと離れた自分。
その我の自分を、ありがとうございますで繋いで、神さまにお返しして循環させていけば、我の自分はどんどん消えて、真の神さまだけが残る。
元々自由自在心の自分の中は、真の神さまが通り抜けるだけ。永遠に真の神さまだけが循環するの。小さく掴まなかったらそう。

だから、真の神さまだけがある。真の神さまが本当の自分になるの。本当の一対一の関係を勉強するという意味は、ここへ戻るためなの。
そして、そういう気持ちで、例えば、この肉体という自分の立場に立ったとしたら、どう見ていけるか。
みんな自分の残像の一部だったら、そこへ真の神さまを呼ぶだけでいい。全てを真の神さまにお返しするだけでいい。

全体を眺めながら、ありがとうございますで、恩返しの心でお返しする。
また、ありがとうございますで、新たに新たに、神さまの現れを、受け直す。ありがとうございますの持っている意味を全部使いこなして、
我を消し、神さまと一体感を深めていける。そしたら、本心の自分に戻るのが早い。
本当に神さまと自分だけだったら、スーッと上っていける。元から一体だから、自分の自由で全部神さまにお返しできる。
他人には勝手なことは出来ないけど、自分のものは全部お返しできる。全部お返ししますと言えば、一瞬に変わる。

でも、他人のものと言ったら、どんな小さいものでも消せない。それで、真の神さまだけ、そこまで行かないとダメ。
本当の一体感。真の神さまが全ての大元の一体感のすがた。バラバラのものをくっつけるのとは違う。
一大循環の相象、無限のスピードで本当に循環する完璧な流動体。単なる形あるものを与え合うのとは違う。

本当の与え尽くし合うすがたは、すごい。一瞬一瞬新たに、絶対の中心の一番大きい立場から、
入れ子構造的に、重層構造的に、異次元構造的に、ところてん式に、らせん構造で、一大瀑布となって、全体から降り注ぐ。
それで循環している、一大循環の相象をとる。これはすごいこと。

真の神さまが、自由自在心の自分の意識の中を目の前を通り過ぎて、循環してくれるの。
本当に真の神さまだけを、見せてもらうだけ。実際、肌に触れるように、実感させてもらうだけ。その他に何もない。
最初からそう。何もないの。真の神さまだけがあって、真の神さまだけを与え続けてもらって、受け続ける。
一瞬残像を掴んだだけの虚の世界なんて、本当は取るに足らない。虚の世界をいかに早く消し去るか。
そのための方法は、もう一回、一対一の関係に戻ること。真の神さまの他には何もないって。その他に何かあると言ったら、それは消せない。

全て言葉通りになっているのだけど、みんな言葉通りに受けている。それも、真の神さまから言葉通りに受け取っているの。
真のプラスの言葉は、真の世界をそのまま受け取れる。でも、小さいプラスの言葉は、真の神さまのすがたではないから、言葉だけの受け方。
本当はないのだけど、マイナスにしたすがたでプラスを感じるの。

マイナスは、もう一つそう。プラスではないから、プラスのない状態を言葉通りマイナスに受ける。
全部言葉通りに受けているの。それも真の神さまから、言葉通りに受けているだけ。そこへ他人はもう入れない。
自分が自分の使う言葉通りに受けとっているだけ。最初から最後まで全部そうなの。
真実の世界にいる時は、自分の真のプラスの言葉で、真の神さまを受け取っている。
虚の世界に入ったら、もう一つそう。自分の言葉だけの感じ方をして、受け取っている。
だから、全部自分の言葉通りになる。なっている。これからもなるの。

だから、自分の言葉を変えるだけ。真の神さまに対して、真の神さまのプレゼントを受けるのだったら、真の神さまを言葉にしないとダメ。
常に、プレゼントを贈ってくれる贈り主は、真の神さまだけ。他には何もない。真の神さま以外にも何かがと言うのは間違い。

この世の肉体界に降りている自分にとってもそう。真の神さまからの全てがプレゼント。
誰か他人が与えてくれていると言ったら、真の神さまを無視している。一回与えてもらっても、大元の送り主を無視したら、
次は与えてもらえない。真の神さまの与え方は、絶対自由を縛りたくないから、自分が表に出てこないだけ。

でも、受ける側は、無視したら受け取れない。神さまは、認めてもらいたいの。認めて、喜んで、自分の自由意志で大きく受けてほしいの。
無視されて、受け取ってほしいのではない。反対。どこまでも気づいてほしい。早く気づいてほしい。
神さまが本当の愛なのだって。単に、プレゼントとして贈り物を送って、贈り物で喜んでくれるぐらいでは足りないの。
それはもう枝葉の小さいもの。真の愛を感じてほしいの。本当に愛しているよって、この愛を感じ取ってほしいだけなの。
物をもらうなんて、枝葉の小さい無限分の一の愛の感じ方。

真の神さまの愛を感じることが、本当の幸せ。この一大循環の相象は、この愛を感じさせてもらうためのすがた。物ではない。
常に一対一にならないと、本当の神さまの愛がわからなくなる。
だから、常に真の神さまだけを、その愛のすがただけを、感じ取ろうとする。神さま以外に何も認めたらダメ。
真の神さま以外何もないという風に、徹底することが一番必要。最重要なの。


(平成25年12月14日のお話 第1部@)