真のありがとうございます 


真の神さまは、無限の無限の入れ子構造の天照大御神そのもの、全部。
真の神さまが虚の世界に降りようと思ったら、末端の天照大御神様が光源となり残像の光となって、
虚の世界の全部に順番に循環するすがたをとって助けに降りるの。表面だけでいいの。
入れ子構造の天照大御神様なんて、必要ない。虚の世界には出てこられない。
末端の天照大御神様でも、残像の光になって、模型の天照大御神様に変身しないと出てこられない。

虚の世界に入るとなったら、小さい模型の光に変えて入るしかないから、残り全部がUターンする。
Uターンは、真実の世界のすがた。振り替えというのは、例えば、本心の自分がいる。
我の無い無色透明の自由自在心の自分が、この時、一大循環の世界のどれだけを今の一瞬受けられるか。
本心が受けたものがその時の自分になる。だから、自由自在心として受けた分がその人。
だから、今1個の天照大御神様を受けたとしたら、次にもっと大きく、一段上の大きい天照大御神様を受け直したいと思った時、
それが必要になる。その時に与えてくれるのが、一段上の天照大御神様。それを全部しているのが一大循環の世界の相象(すがた)そのもの。
より大きいものより新しいものって、順番に取り換えてくる。

本心は、常により必要性をもって受け直していくの。だから、どこまで大きいものを必要とするのか、
より新しいものを必要とするのかによって、一人一人自由があるから、本心の自分は同じではない。
自由自在な心は同じだけど、受け直す分は、受けた分は、全部違うの。どれだけ受けたかは全部違う。受けた分がその人。
だから、末端の1個の天照大御神様から受けたのは、小さい自分。入れ子構造の大きい天照大御神様から受けた方が、無限に無限に大きい。
比較したらそう。だから、絶対の中心に立てるまで大きくなった方がいい。それも自分を与え尽くす、与え続けることで、
自分の中を大きく循環してきて、大きくしてもらう。

だから、真祈りを祈り続けて、祈って祈って、自分の中を循環させる祈りをしないと大きくなれない。
虚の世界みたいに掴んで大きくなることは絶対ないの。与え続けて大きくするしかないの。受けたら止まってしまう。
ストップがかかるから、全然受けられない。同じ大きくと言っても、止めて受ける大きくではない。
無限のスピードの循環の大きくだから。大きくたくさんというのは、倍のスピードになるだけで、
量的に言ったら、倍の大きさになっているの。スピードが速くなるほど、大きい自分になる。
止めたらもう、無限に小さい自分。一瞬でも止めてしまったら、無限に小さくなる。
無限のスピードを保つようにしてないとダメだから、だから、与え続けるの。
真の神さまを与え続けて、無限のスピードにまでスピードアップしないとダメ。
どれだけ与え続けるか。これがやっぱり、祈り。真剣な祈りがいる。
同じありがとうございますを唱えて、真の神さまを与えると言っても、言葉だけではまだ小さい。
中身が大きくなってこないとダメだから。中身が具体的に実感として大きくなるのを、もう感じ取るようになってこないと、
本当の意味で神さまの与えてくるものがわからない。

 

虚の世界のものは全部、真実の世界の模型的な写し。元の原型はみんな真実の世界にある。螺旋構造の動きでもそう。
ただ虚の世界は、単純な螺旋構造。本当の世界は、無限に複雑な螺旋構造。一方向からと言ったら単純。
全方向からと言ったら、考えられない。それも入れ子構造で次元が変わってきて、もう一つ複雑。
それが全部一つになっていないと真実の世界とは言えない。虚の世界とは、同じ螺旋構造も全然違う。

自分の中をどれだけ循環させられるか。自分が大きく与えなかったら、大きいものは循環しない。
だから、本心の自分ほど真剣に祈り続けないと、与え続けないとダメ。大きく与え続けて、本心が大きくなる。
自分の中を通り抜けるものが大きくなる。

まず、過去を掴まないこと、形を掴まないこと。言葉に縛られないこと。もう常に、新たにって加わる。
大きく全体を達観して観るという。虚の世界の一つの次元だけも達観して観るというのが大事。
それも色んな次元を、同時に全体を、上から達観して観ることは、もっと大事。虚の世界全体を観れたら、かなり達観している。
でも、真実の世界の達観とは全然違う。真実の世界は、入れ子構造。虚の世界は、入れ子構造とまで言わない。単純な世界に見える。

でも、真祈りを祈る練習で一番大事なのはそこ。全体を達観する自分に戻る一番の近道だから。
大きく全体を自分として観る。全てに到達しているという意味。どんな遠いところも、自分が到達して観ている、全部自分になるという意味。
全体が自分になって観えないと。小さい自分がいて、遠いところを見るのとは違う。それは達観とは言わない。
全体を自分として観るのが達観。

自分が天照大御神様の分身として使って、派遣して振り替えるの。支え合う振り替えはそう。
受けるのは、まだ受ける振り替え。だから、支える振り替えは、自分が祈って祈って、祈りぬいて、支える働き。
本当にしないとわからないから。でも、そういう立場で見ようとしたら、受ける時の振り替えが、より大きい振り替えに見えてくる。
天照大御神様が振り替えて下さっているというような見方ができてくる。受け方が上手になる。
小さい受け方ではなく、大きい受け方に変わってくる。だから、真の神さまの支え合う立場からの振り替えだったら、
もっと大きく見えるから、本物の天照大御神様と出会うような受け方ができるかもしれない。

より大きい受け方をした方がいい。そしたら、与える生き方から支える生き方へ自分が昇ってくる。
より上の見方をしないと上がれない。だから、求める生き方から受ける生き方へ昇ろうと思っただけで、
受ける生き方をしっかり勉強しないと昇れない。受ける生き方から与える生き方に昇るのでもそう。
与える生き方を徹底しないと、受ける生き方を卒業できない。
与える生き方から、さらにそれを卒業して、支える生き方に昇ろうと思ったら、支える生き方の練習がいる。
真の神さまを与え続けるという、祈りの練習がしっかりできないとだめ。より上の生き方をとって卒業する。


(平成25年12月7日のお話 第2部@)