真のありがとうございます 


 真の神さまの全ての愛を受け取るためにはどうしたらいいか。
真の神さまが与えている通りに、自分が一回与えようとしたらわかる。
一人一人の自分の意識というのは、自由自在だからどういう立場にでも立てる。どこへでも行って、どこへでも立てる。
だから、自由自在に言葉通りの場へ立てる。これはもう、一瞬に出来ること。
だから、真実の世界のどの段階にも立てる。虚の世界のどの段階にも自由に立てる。

どんな立場に立っても、本当に真の神さまの与え尽くす愛の立場に一回でも立てたら、どの立場からでもその愛を受け取れる。
例えば、この世でこの肉体という立場に立ったとする。その時にどう真の神さまの愛を感じるか。
自分以外の周りの全部が、真の神さま。真の神さまの変身のすがた。
この肉体のレベルまで降ろしてこようと思ったら、天照大御神様では出来ない。
真の神さまの真実の世界は、末端が無限の天照大御神様。そのまま出てこられないの。
そしたら、虚の世界にこの残像の光を降ろしても、その光もあまり大きすぎてもダメ。

どんどん小さくして、肉体のレベルに合わせたすがたをもって、この天照大御神様が模型の分身をどんどん小さくして、派遣してくるの。Aという一人の人を幸せにするためにどうしたらいいか。Aという人に、今必要なだけを与えるだけでは足りない。Aという人に、今この世に生まれてくるという小さくなった原因があるの。過去を掴んで掴んで、残像の中にはまり込んで、思いを一杯積み重ねて、マイナスを一杯無限に積み重ねて、それを背負って降りているはずなの。

そしたら、今必要なだけを与えるのではないの。この過去生の無限のマイナスのすがたを全部消さないとダメ。
大きいマイナスがあるの。消すために、どうしてあげたらいいか。これが本当に必要なことになるの。
溜めたこの思いを、マイナスを、派遣された天照大御神様の模型の分身が、少しずつ順番に背負ってくれるの。
順番に次から次へと流れるように、小さい模型のおもちゃの天照大御神様のすがたを取るの。
肉体人間のような、Aという人の思いを順番に少しずつ削り取って、循環して戻って行くの。
そしたら、自分以外の全てが、天照大御神様の振り替えのすがた。

今、肉体の自分という立場に立っているとして、肉体の自分一人に対して、真の神さまが、全体となって目の前に現れる。
どの立場でも、自分と真の神さまと、一対一の関係。みんな振り替えてくれているの。
自分のマイナスを、少しずつでも背負って、循環して消し続けてくれている。一瞬一瞬、新しい天照大御神様の分身。
どの人を見てもそうなの。一瞬一瞬、違う天照大神が、次から次へ舞い降りているの。
少しずつ、マイナスを、思いを、汚れを取って消し続ける。

この世に生きていても、本当に真の神さまの愛が、天照大御神様の愛が少しずつでも理解できてわかっていたら、
そういう受け方が出来る。でも、気付かなかったら受けられない。自分の財布の中にキャッシュカードが入っていても、
そのキャッシュカードが入っているというのを忘れていたら、使えない。どれだけ預金があって、無限億万円預金があって、
どれだけでも引き出せるというのを知らなかったら、引き出せない。一万円しか残っていないと思ったら、一万円しか引き出せない。
だから、知るということが、一番大事なこと。気付く、知る、わかるということが、それを受け取ることになるの。

真の神さまがどういう風に働いて、幸せを与えようとして来ているか。これを知ることが、そのプレゼントを受けたことになる。
だから、気付きってものすごく大事。気付く為に、必要なものは何か。このありがとうございますという言葉が、真の神さまの愛に気付く、
そのために必要な言葉なの。ありがとうございますに無限の段階の深い意味が中にあるのだけど、その段階ごとに中身が違うけども、
真の神さまの助けがそこに降りてくる。低ければ低いなりの助け、高ければ高いなりの助けが、的確に降りてくる。本当の命綱。
このありがとうございますという命綱さえ離さなかったら、順番に救い上げて、真実の世界の一番奥まで、
秘奥義の真祈りを祈れる自分にまで高め上げてくれる。引っ張り上げてくれるの。

ありがとうございますを唱えることと同時に、どんな言葉を選ぶか。でもまず、ありがとうございますを選ばないと。
今の自分の立場が、低い所にあったら、低い所から少しでも上に上げてもらうのに、上げてもらえない。
少しでも上げてもらえたら、上に上がりやすい。プラスの言葉を使いやすい。

だから、最初はありがとうございますを、意味も何もわからなくてもいいけど、唱えていると、本当に必要な助けが自然に降りる。
その助けを受けている間に、自分がどんどん変化してくる。本心の自分が輝き出てくるように助けてくれるから。
その自分が自由意志で、今何を選ぼうかって、本当の自由意志を発揮するの。
そしたら、最高のプラスの言葉を選んだら、すぐに一番高い所へ戻れる。

本当は、元々が一番高いところにいたはず。絶対の中心から、新たに新たに出てきた自分があるはずなの。
ただ、その自分は常に、真の神さまの全てを与え続ける自分でないと、その自分ではない。

絶対の中心という立場は、本当にそういう立場。真の神さまの全てを与え尽くす場。与え続ける自分は一番高い所、絶対の中心に立つ。
それも大きく大きく与える場。だから、与えるというのが本当は一番大事なこと。大きく与えるということが大事。

真祈りというのは、真の神さまを与える、大きく与えるお祈り。真祈りを祈っていたら、一大循環の真実の世界から、虚の世界へは絶対堕ちない。
一瞬祈るのを忘れた時に、残像の世界にはまり込んだの。残像の世界に入ってからでも、本当は一瞬に戻ればいいのだけど、忘れると更に忘れる。

でも、忘れても忘れても、真の神さまの愛は後を追いかけて、助け続けようとしてくる。ありとあらゆる振り替えの技を使ってくるの。
真実の世界のところでも、同じ。より大きいプレゼントを与えようとし続けてくる。

振り替えという言葉は、何で振り替えという言葉を使うのか。采配を振るという言葉があるよね。
大将、指揮官が、部下の兵卒に采配を振って、自分の自由自在に、手足のように動かすの。棒に細かくした布を束ねたものを振る。
それを采配と言う。でも本当の意味は、そんな意味ではない。

神社で、お祓いしてもらう時に、御幣というのがある。紙がたんたらに切ってあって、麻の紐が一杯ついている。
そういうので祓ってくれる。あれは何を意味するか。たんたらのシデというのが、螺旋構造の入れ子構造のすがたを表すの。
玉串奉奠の時に、榊につけている玉串は、天照大御神様の象徴。榊が永遠のいのち。絶対の中心から、螺旋構造で全て広がっているすがた。
これを象徴しているの。

玉串奉奠する時は、根の方をぐるっと回して、捧げるの。根こそぎって。神さまに対して一番根本から全てをという捧げ方。
神さまから受けたものを全て、根こそぎ、全部神さまにお返しするすがた。一対一の関係なの。
常に、真の神さまだけという立場に立つため。それとよく似ている。
御幣というお祓いも、一本一本の糸のような麻のあれが真の神さまの天照大御神様の愛の光。
それを振ることによって、本当に与えているの。天照大御神様が、的確に必要なものを与え続けるすがた。

古いものと新しいものとを置き換えて、必要なものを与え続ける。置き換えている、取り替えているの。
真実の世界も全て振り替えなの。新しいものを次から次へ与えるのが、振り替え。本当に必要なものを与え続けるの。

古いものは要らない。今、目の前に与えてもらっているから、古いものはもう要らないものなの。
それと新しい必要なものを与える、取り替えるの。入れ替える、取り替えるの。それで、その采配を振るい続ける。
真実の世界も常に、振り替えなの。虚の世界も振り替え。順番に古いものと、今本当に必要なものとを取り替えていく姿。
それが常に、一人の人に対して、全体がそうし続けるの。

だから、地獄の亡者になって、今自分が苦しみ続けているとしたら、同じ地獄に住んでいる人みんなが、
自分のマイナスの振り替えをして背負って消し続けている。本当の真の神さまの愛の極致のすがた。
自分以外のみんなが真の神さまの愛のすがたなの。自分のマイナスを振り替えて振り替えて、みんなが振り替えてくれて循環させながら、
消し続けてくれている。それも新たに新たに、ずっと消し続けてくれているというすがた。

どの世界にいても同じなの。自分に必要な助けを与え続けてくる。どの段階も同じ。
まず、自分と同じすがたを取り続けて助ける。波が合わないと出来ないから。波を合わせてくるというのは、
周りのみんなが自分と同じすがたで助け続けてくれる。自分の持っているものを順番にみんなが背負って助けてくれている。
消してくれている。新しいものを置き換えてくれる。これが神さまの側から見たら、そういう風に見えるの。

ところが反対に、求める側から見たら、どういう見方をするか。同じ振り替えという言葉を使いながら、やっぱり小さい見方しかしない。
人間は、男の人が42歳、女の人が33歳で厄年という。その時、どうやって厄を祓うか。
マイナスの運命にならないように、持っているマイナスを何かに振り替えて、とってもらおうとする。
そしたら、厄年の人は、みんなに何かをプレゼントする。プレゼントに自分のマイナスをくっつけて、もらってもらうの。
そうすると、マイナスが少なくなって、助けてもらうという。厄払いになる。

また、色んなマイナスの病気とか悪いものを持っているとする。まず紙で人型を作って、その自分の身体を撫でて、マイナスの波を移す。
移した人型をどこかで消してもらうの。神社とかお寺で燃やしてもらって消してもらう。これも振り替え。

施餓鬼(せがき)供養もそうかもしれない目連尊者が、お母さんが餓飢道に堕ちてて、それを救ってもらうために、
衆僧(しゅうそう)供養というお祈りの出来るお坊さんに色んな供養をすることで、マイナスを背負ってもらって消してもらって
お母さんの運命を変えた。でもこれは求める側から見た見方。いかに小さいか。いかに中途半端な見方か
自分以外の全てが真の神さまの愛のすがたとは見えてない。

だから、求める心ではわからないの。受ける心でもまだわからない。小さくしか受けてない。
与える側に立っても、まだ小さいの。自分のものを与えるだけだから、支える側に立たないとダメ。
支える、真の神さまを与えるという立場に立ったら、わかり始める。支え合う立場に立とうとしたら、もう一つよくわかる。


(平成25年11月30日のお話A)