真のありがとうございます 


 真の神さまの愛がどれほど大きいか。どのぐらいと思う?昔からよく、親の心子知らずと言う。
親の愛は山よりも高く、海よりも深いという愛だけど、子供の方は気付かない。
自分が成長して親になって初めて、親の心を少しわかり始めるという。真の神さまの愛がどれだけ大きくて深いか。
神さまの立場に立ってみないとわからない。どうしたら、神さまの立場に立てるか。

生き方に、大きく分けて5つの種類がある。まず、求める心の生き方。
人の心境に応じて、御釈迦様は10界に分類してくれている。求める心は、六道の世界。地獄、餓飢、畜生、修羅、人間、天上と言う。
求める心がある世界。受ける心は、声聞・縁覚の世界。プラスに受けよう、受け直そうとする世界。
菩薩・仏の世界が与える生き方。この与える生き方も、自分の持っているものを与える生き方だから、まだ小さい。

次は、支える生き方と言う。支えるというのは、ちょうど建物の基礎のようなもの。下から支えるの。
本当の支え方は、絶対の中心から、全体を大きく支えてくる。
その支える生き方は、まだ中から、中心から支えるにしても、小さい支え方。

もう一つは、支え合う生き方。支え合うというのは、支えの力を全部一つに合わせる。大きい力で支える。
その全大宇宙を支えるというのでも、全大宇宙でも無限の次元がある。その無限の次元の全てを支えるには、ものすごい大きい力がいる。
基礎でも、盤石の基礎がないとダメ。何が起こっても微動だにしないというくらいの基礎。
だから、支えるというのは、大きい支え方だから、無限の次元の宇宙を支える生き方。
だから、本当の盤石の支えがいる。支え合うとなると、もう一つ大きい力。盤、盤石の支え。でも、神さまの愛は、全てを幸せにしたいわけ。

本当の幸せは、本当に必要なものを的確に、すぐ与えてもらうと幸せなの。
それを神さまは、全てに対してずっとし続けてくれている。1番高いところにも、1番低いところにも、全てに対して。
大きくも小さくも全部そう。それが一大循環の相象(すがた)いうすがたをとるの。

だから、絶対の中心は、別に場所ではない。1番大きく与え続ける場、立場。これが絶対の中心。
そこから入れ子構造的に大きく与え続けてくる。真の神さまは、その与える時に、天照大御神様を自分の分身として使う。
入れ子構造的な天照大御神。これも、無限の無限の天照大御神様。数は、無限の無限なの。
絶対の中心に近いところの天照大御神様は、大きい。末端に行くほど小さい天照大御神様。
でも、一番末端の天照大御神様でも、虚の世界を一瞬に消せる力がある。虚の世界の天照大御神様ではないの。
本物の天照大御神様は、無限大の大きい大光源。だから、虚の世界なんか一瞬に消せるだけの大きい力を持っている。
そして、天照大御神様が真の神さまの分身として派遣されて、的確に全てに必要なものを与え続けるわけ。

だから、天照大御神様を使わないと、段階を追って必要なものを的確に与えるのは難しい。
1番上で大きく与えたからいいのではない。末端まで的確に与えるとなったら、自分を変身させないとダメ。
大きいところでは大きい自分が、小さいところでは小さい自分になって、順番に変身して、与え続ける必要がある。

だから、無限の無限の天照大御神様を自分の分身として使わないと。
そして、必要なもの、愛のプレゼントを持って、一人一人に与え続けるの。
それも、一瞬一瞬何が必要かを見抜いて、即座に必要なものを、的確に無限のスピードで与え続ける。
真実の世界だけでも、大変なこと。同じ必要なものを与えると言っても、本当に必要なものを循環させるわけ。
1ランク下がるだけで、1段階下がるだけで、ものすごく違いがある。
それで、必要なだけを与え続けて、残り全部をUターンさせて、絶対の中心に戻してくる。

どれだけみんなが神さまの愛を受け取ってくれるか。的確に見抜かないとダメなの。
受け取れる能力以上のものを与えたら、コップ1杯の水が欲しいと言う時に、大洪水を起こしたら大変。
それは、絶対できないこと。本当に必要なものを見抜いて、必要なものだけを与える。それも一瞬一瞬新たに。

虚の世界へ入ったら、もう一つ、与え方が色んな意味で大変なの。
虚の世界の救いに立つ時も、真の神さまが天照大御神様を更に模型的に変身させて、段階を追って、小さく小さく変身させて、
それぞれの場に波を合わせて救いに立つ。

虚の世界でも高い世界は、大きいすがたで、光の強いすがたで救いに立てる。必要なものを与えるだけでもそう。
低い世界に入ると、みんなが過去を掴んで、どんどん小さくなって、これが自分って小さくなっていくから、
宇宙が自分なんて言わない。小さいものが自分と掴んでしまっているから、天照大御神様も、それに合わせて小さく変身しないと。
変身しながら必要なものを与えようとしてくる。

だから、真の神さまがどれだけ一人一人を本当の幸せな状態に変えようとしているか。
みんな本当に、真の神さまと一対一の関係で相対するというのが大事なこと。信仰の極致。
真の神さまと自分を一対一の関係に置くこと。

これがどういう意味かというと、本当の自分、真の自分と言うのは、一切の我の無い無色透明の自由自在心、これが本当の自分。
この本当の自分が真の神さまを与え続けることで自分の中を循環させるの。
だから、無色透明、自由自在心の自分と、中を通り抜ける真の神さまの一大循環の相象と両方が自分。

そして、真の神さまと自分というこの関係は、真の神さまの全てを受け直した時に、真の神さまが真の自分になる。
真の自分の全てを真の神さまに捧げ尽くして、恩返しでお返しするの。そうすると、自分が消えて、真の神さまだけになる。

真の神さまの全てを受けるというのは、一大循環の相象の全部。この全てを受け取って、初めて、真の神さまが真の自分になる。
そして、その全てをまた、真の神さまの方へお返しする。絶対の中心に戻すの。
だから、常に、唯一無二、絶対の独り神の、独在の、真の神さまだけ。神さまの他にないの。ただ、独り神だけ。
唯一無二、絶対の真の神さまだけ。その神さまを受け入れた自分は、唯我独尊。ただ独り、我が尊いと言う。
自分の他に他人はないの。真の神さまの全てを受け入れた自分は、ただ一人。

真の自分と言うのは、真の神さまそのものになっている。だから、常に真の神さまだけが独在している。
真の神さまから見て、ただ一人だけではなく、みんなに、全てを与え尽そうとするとどうなるか。
太陽のように輝いていて、無限の人がいて、そこに太陽の光を与えるというのだったら、全部受ける光が違う。全体ではない。
一部しか受けられない。だから、一人ひとり受けるのは、無限分の一になっている。こういう関係だったら一対一ではない。
一対一というのは、Aという人だけを相手にして、残り全部、真の神さまとして与え続けるの。
Bという人に対しても同じ。Aも含めた全て、残りの全て、全部を真の神さまとして、Bという人に与え続ける。
Cと言う人も同じ。Cという人に対して、Aも含めた、残りの全部含めて、全体を真の神さまとして与えるの。
だから、常に一対一なの。


(平成25年11月30日のお話@)