真のありがとうございます 


Q「先生のお話の中で、しん柱と言う言葉を何度も教えていただいて、
このしん柱の『しん』と言う字は、どういう字を書くのかということと、そのしん柱についてもう一度意味を詳しく教えてください。」

 

Aこの「しん」もたくさんあるね。真の神さまの神という「神」も、一番新しい「新」も、絶対の中心っていう「心」もね、
また、形の上の中心っていう「心」もあるし、たくさんの「しん」があって、初めて、しん柱になる。
同じしん柱を与えるっていうのでも、必要なものを全部加えないとダメ。それで、中から輝くのも、各段階から輝くのも全部必要なの。

だから、ありとあらゆる助けを与えていくのが、本当のしん柱。真の神さまの働き。
真の神さまだから、1番奥からだけか、違う。一人一人にしん柱を与えるっていうのは、真の神さまの働きの全部だから、
それも、真実の世界だけじゃない。虚の世界も含めたら、虚の世界のありとあらゆる段階への働きかけも全部、同時に与える。

だから、本当に必要な、中から自立するための働きかけを全部与える、これがしん柱。
だから、種類が多い。段階が多い。全部。その意味でね、神さまを与える神柱。それで、絶対の中心から与える心柱ね。
全てに心配りをする心柱とか。段階が色々ある、深い深い深柱とか。色々考えて。まだあるよ。

本当に神さまの助けって奥深いから、新しく新しくって、どんどん新しく与えるのも新柱。新しいほど新柱。
神さまがそれを、ずーっとし続けてくれているの。神さまがまず、祈り続けてくれている。与え続けてくれている。常に、根本にこれがある。

みんなが、自分が祈り、真の真祈り、秘奥義の祈りを祈れるようにしていくのは、真の神さまの祈りに近づくため。
自分の祈りでどうのこうのではない。真の神さまの祈りに自分が近づいて融け入るため。自分の祈りになんか、力がない。
逆に言ったら、我を消して消して消して、邪魔をしないようにしていくだけ。もう、ちょっとでも掴んだら邪魔になる。
ちょっとでも、これが自分、これが自分のものって掴んだだけで邪魔になる。また、小さく掴んでも邪魔をしているの。小さく部分を掴むだけで邪魔。

だから、真の神さまの祈りと同じにまで行くっていうのは、一切の邪魔をしない生き方。
それが、我を消して大きい生き方をとるということ。これが、邪魔をしない生き方になっている。

真の神さまを与え続けるだけっていうのでも、真の神さまの中身がどんどん祈っているうちに変化する。
同じ真の神さまを与え続けているっていう風に、思い定めて、ありがとうございますって唱え続けていても、
真の神さまに対する捉え方が全部、一人一人違う。浅い、小さい、深い、大きいって、色々違う。
だから、これも祈り続けているうちに、大きくなるし、深くなるしって、どんどん変化させてもらうの。
それも、祈っているうちに、やっぱり、我を消してもらいながら、本心を輝かせてもらって、
どんどん真の神さまに近づいていく、近づけてもらっている。それで、お祈りも本物に近づけてもらう。

だから、もう、ひたすら、真の神さまを本当に信じ切って、ありがとうございますって、唱え続けるだけ。
信じ切るっていうのも、真の神さまだけを言葉にするっていう意味。真の神さま以外を言葉にしたら、信じてないの。
他の信が出来上がってしまう。だから、ありがとうございますだけを唱え続けたら、真の神さまを信じた信になる。
これがだんだんと本物になっていく。

本当に言葉通りっていうのも、絶対の法則だけど、言葉通りってわかっているつもりでも、実行となると、これまた大変。
本当に最高のプラスの言葉を選んで、それ一つをしっかり唱え続けているかって、それも隙間なく、どれだけ奥深くからって。
やっぱり本物になるには、色んな意味で真剣さがいる。

自分の立場に、無限の段階がある。どの立場を選ぶか。生き方にしても、大きく分けて5つある。求める心、受ける心、与える心、支える心、支え合う心って、大きく分けて5つある。どの生き方を自分は選ぼうとしているか。それだけでも、ありがとうございますを唱えても、全然意味が違う。

だからもう、一人一人自分の本当に目指すところはどこか。本当は、真の神さまだけでないと嘘。
その真の神さまが、本物の真の神さまってどんなものかって、やっぱり真剣に探さないと、漠然とじゃまだダメなの。
真剣に探して、本当の違いがわかってこないとダメ。

今捉えている真の神さまと、本当の真の神さまには違いがある。その違いが分かるほど本物に近づく。言葉だけじゃダメなの。
真の神さまって、言葉だけでは、中身が無限通りある。同じ言葉でも中身が、違いがはっきりしてこないと。
自分の立つ場所で、どこから真の神さまって、見るか。末端で見るのと、絶対の中心で見るのとは全然違うから。

でも、自分の自由意志で選ばないと。自由意志を発揮しないとダメ。自由意志を使わない時は、惰性に流れる。
新たに新たにって、自由意志で、真の神さまを、ありがとうございますを選ぶ。
それも、与え尽くすっていう、支え合う意味の与え尽くすっていう与え方がいる。

でも、神さまの愛の方が、もっと大きいから、そういう本物の自分に戻すために、神さまが一生懸命になっている。
もう、全てを総動員する。全てを使って、本心に戻そうとする。
それで、自分が、例えば、地獄に落ちた人一人を、救おうとしたらどうするかって考えたら、
自分が救いに立とうとしたら、神さまの愛の深さがよくわかる。地獄に落ちた人を真祈りの祈れるように変えてあげようとしたらどうなるか。
それで、救いに立とうとする気持ちがいる。そしたら、神さまの愛の働きが、よくわかってくる。わかったら、受け取れる。

身近なところを救うだけでも大変。地獄のどん底に落ちた人を一人、救いに行くって、世界が全然違うから、もう一つ大変。
今、例えば、フィリピンで台風30号が通って、まだ救援が届かないところが一杯ある。道路が寸断されて、もう物資が行かない。
1週間たってもそんな状態。食べ物が何もない。それでも、助けに行きたいって思うだけではいけない。
日本から行くにしても日にちがかかるし、物資を持って行っても届かないし、それだったら、どうやって助けるか。
この世の人に食べ物を与えるだけでも大変。それでも、餓飢道の人、一人救うことから見たら、まだまし。
餓飢道の人を救おう思ったら、何万倍、何億倍、大変。更に地獄だったら、もっとすごい。もっと大変になる。

今自分が幸せでも、幸せにしてもらっているだけ。地獄に落ちた自分を救い上げて、今があるのは、ここまで救い上げてもらっただけ。
これから堕ちていくのではない。これから地獄まで、地獄めぐりに旅行に行く、堕ちていく人もいるけど。

でもみんなは違う。お祈りをさせてもらうようになってきているのは、下から救い上げてきてもらったの。
地獄に堕ちた自分をここまで救い上げてくれた。そしたら、今、自分が、地獄へ行って救えるかって考えたら大変。
ここまで面倒見てもらえたっていうことは、どれだけすごいかって、ちょっとはわかる。

そしたら、今の自分の幸せなんて、考えていたらバカ。恩返しに生きることだけ。
真の神さまへの恩返しにって、神さまのお手伝いに生きようとすることだけ。それでこそ、本当の本心に戻る。
この世の一生の安楽って、幸せなんて求めたらバカ。この世さえよかったらなんて、そんなもの。
災害で何も食べられない人から見たら、1週間断食するくらい楽なもの。災害に遭って、何も食べられない人は、断食するのとは全然違う。
恐怖心で一杯だからやっぱり怖いの。体の衰弱も速い。1週間食べられないっていうことは、もの凄いこと。衰弱するの。
でも、自分から断食しようという人は、恐怖心がない。断食しても何ともない。元気になる。気持ちが違うの。

神さまのお手伝いは、いつも神さまと一緒だから、神さまのバックアップでいつも護られているから、怖いものは、何もないの。
それで、邪魔するかもしれないけど、神さまのためにって、神さまのお手伝いに生きる。
でも、ちょっとでも神さまのお手伝いがしたいって言ったら、面倒を見てくれるの。
小さい子が、おじいちゃんに面倒を見てもらって、遊んでもらっていて、おじいちゃんが何かをしていると、
おじいちゃんのお手伝いがしたいって言ったら、邪魔ばっかりされているけど、一生懸命面倒見て、何でも教えてくれる。
神さまも同じ。神さまのお手伝いがしたいって言えばいいだけ。そしたら、ちゃんと面倒見るの。邪魔するのはだんだんと無くなってくる。

まず、第1が、ありがとうございますってお祈りすること。意志表明をしないと。
ありがとうございますは、神さまのお手伝いに生きます、絶対奉仕に生きます、恩返しに生きます、全てをお任せします、全て含まれている。全託。
だから、ありがとうございますを唱えることが、まず1番大事なこと。


(平成25年11月16日のお話 第1部B)