真のありがとうございます 

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Q:「本心の自分っていうのを自分が感じる時って、全然違うのですか。」

A:違う。我の自分が一切消えてしまうから。本当の無色透明な感じになってくる。
本当の自分、本物の自分。本源の自分。本質としての自分。元からある本来の自分。
本心の自分は、色んな意味で色んな角度から感じられるけど、根本は真の神さまそのもの。

与え続けるのを忘れたら、また虚の世界に転落する。与え続けている限りは、過去を掴まないの。
これが自分って掴まないから、虚の世界に転落しないけど、与え続えるのを忘れた時に、掴んでしまうの。
循環の流れを掴んで、これが自分って小さくなっていく。それが我の自分になっていく。

与え続ける、元に戻ったらいいだけ。与え続けるありがとうございますになったら大丈夫。それが一番の喜び、幸せなの。
忘れる方が不思議。でもある一瞬忘れる。それで、虚の世界を体験しても、一瞬の夢みたいなもの。
夢から覚めたら、本心の自覚が蘇って、幸せが大きくなっていく。だから、夢の体験も無駄ではないかもしれない。
夢を見続けたら困るけど。早く覚めないとね。

神さまの褒め方は、本心を褒める。肉体を褒めない。人を褒めても自分を褒めても、肉体を褒めるのは間違いなの。
本心の自分と比較したら、肉体の自分はマイナス。ゼロ。それをわざわざ、褒め言葉で褒めても、褒め殺し。
本心に戻っているのとは違うから、マイナスになってしまう。本心を褒めるのはいい。神さまとして、完璧と褒めるのはいい。
それで、その言葉の力で本心を引っ張り出すのはいいの。輝かすことはいいこと。本心を離れた自分を褒めたらダメなの。
それは間違っている。褒めた方がいいと言っても、みんな人は、本心が輝くのでなかったら間違っている。虚栄心が強くなるだけ。我を積み重ねる。

だから、虚の自分は、反対に最低に落とすくらいがいい。法然さんは日本一の碩学、学者だった。
その最高の人が、自分を最低に見るの。肉体の自分を愚禿(ぐとく)法然とか、罪悪深重(じんじゅう)の凡夫とか最低に落とすの。
だからこそ、本心を輝かせる。肉体を相手にしていない。阿弥陀様だけを相手にして、阿弥陀様と自分を一つにしてしまう

だから、真の神さまだけを相手にして、本心の自分に戻らないと。
肉体の自分を相手にしているのは、やっぱり結局、真の神さまを忘れているということ。時間がもったいない。
全て言葉通りになるのが根本。言葉通りの自分にまずなる。本心に戻りたい人は、真の神さまだけを言葉にする。
そしたら、本心の自分に戻る。肉体と無関係に、本心の自覚になる。だから、どれだけ神さまを言葉にしているか。

本当は、本心の自分がいつも働いていると思える人はそうなっていく。
でも、肉体だけを生きているというのは、我を積み重ねて、マイナスを積み重ねる。神さまの働きを全部無視してしまう。
本心の自分を生きようとして、お祈りすると、我が消えて、本心の働きがどんどん加わってくる。
だから、どちらを選ぶか。1回1回、どの言葉を選ぶかが大事。

本当のプラスの言葉だけを選べばいい。虚の世界を選ぶか、真実の世界を選ぶか。やっぱり、真実の世界の方がプラスだけ。
本当は、今一瞬、どちらを選ぶかを問いかけたら、プラスを選ぶと思うのだけど、惰性に流れた時に少しマイナスの方を選びやすいというだけ。
だから、一瞬一瞬を問い返してみるといい。どちらがいいかって。


(平成25年11月9日のお話 第2部A)