真のありがとうございます 

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ありがとうございますの祈りが、真祈りになったら、真の神さまを与え続ける祈りになる。
そしたら、新たなる全徳の無限の無限の輝きが無限に無限に一杯、これを与え続ける。すごいことよね。
全徳だから、無限にあるの。神さまの徳性、働きが無限にあって、それが無限に無限に輝く。入れ子構造的輝き。無限に無限に変化する。
さらに、それが無限に無限に一杯となって、さらに無限に無限に変化する。だから、大きい変化を現している。
だから、一瞬一瞬新たなるっていう意味。大きく一瞬に変化するの。全ての神さまの働き、全徳が、無限の無限の輝きが、無限に無限に一杯って、
もう、ものすごい変化。これを、全てに与えるために祈り続ける。的確に与えるためにって言うほうが、
受けるよりも遥かに無限倍すごいことなの。見極めがしっかりできる。受ける場合はできない。
同じものを感じ取るにしても、与える側に立った時は、無限倍に変化する。

だから、与える側に立った時に幸せが本物になる。大きくなる。だから、ただ、ありがとうございますを唱えているようだけど、
この本当の自覚を与えてもらうのは、この、ありがとうございますの一言。これは、神さまの自覚。真の神さまの自覚。
この真の神さまの自覚を深めるために、ありがとうございます、真祈りのありがとうございますを唱えている。
ありがとうございます、と唱えるのは、そういう意味。

そういうふうに捉えて唱えると、ありがとうございますには無限の価値がある。
1回のありがとうございますに、無限の価値がある。唱えずにはおれない。湧き上がる、連続した祈りに変わる。
一瞬一瞬、ありがとうございますになるしかないの。もう、違いが分からない時は、みんな惰性に流れる。
惰性に流れたときは、ボーっとしてしまう。新たに新たに、となった時が、本心の自分が1番輝く時。
大きく本心の自分に戻った時。新たに出てきた自分が1番大きい本心の自分。いかに新たに新たに、が大事か。
だから、新たな自分が1番大きい本心の自分。過去に、惰性に流れた時は、小さくなっていく。

だから、常に今、一瞬一瞬新たに、出発点が真祈りのありがとうございますになっていないと。真祈りでも段階がある。
1番最初は、定義。それで、真義、本義、奥義、秘奥義となる。その1番大きい祈り方、秘奥義までいかないと。
常に絶対の中心から、全ての全てに対して、真の神さまを与え続ける、こういう思い返しで祈るの。1番新しい自分。
1番新しい自分が、1番大きい自分。1番幸せを大きく感じる自分。これも受ける側は、小さいから、与える側に立つほどいい。
与える側に立つほどいいのは、1番の幸せな自分が、無条件の幸せが湧き上がる自分だから。

祈りと真祈りの違いとは何か。祈りの方は、虚の世界のもの。祈りは、過去を掴んだ自分を与えている。
いくら与えても与えても、掴んだだけのものしか与えてないから。全部外からの与え方。真祈りは、中から与える。
絶対の中心は中から与えるから、与え方がやっぱり入れ子構造的な与え方。1番底から奥からって、どこまでも大きくなる。
外からは与え方が小さい。だから、中心から中から与えるのが、1番大きい与え方。
それも、与えたから与え返されるっていうようなものではない。そんなものは、虚の世界の与え方。

真祈りは与えっぱなしの、本当の与えっぱなしの与え方。だから、神さまが無限に大きく循環してきてくれる。
これがありがとうございます。真祈りのありがとうございますの一言。一言のありがとうございますに全部ある。
だから、1万円の価値とは違う。1回のありがとうございますの価値は、無限億万円でも足りない。
1回のありがとうございますには、もっと価値がある。

バラバラに分かれて違うと見えるのを、今度は、違いが分かったら、今度は、1つにまとめていくの。1つに収束していく。
1つに収めて束ねる。そうすると、全体が1つに収束された時が、無色透明。無色透明の立場に戻るために必要なの。
違いを見極めて、全部自分の中に収めてしまう。部分だけだったら無色透明にはならない。
いくら透明な感じになっても、透明なだけで赤色は赤色。全ての色を集めないとダメ。全部集めたら、無色になる。
だから、違いが分かって、なおかつ、全体を自分の中へ収めてしまう。そして、無色透明の自由自在心に戻る。

束ねると言っても、下から束ねていくことは、本当はできない。小さい自分が全部束ねるわけにはいかないから。
束ねるためにも、与える自分にならないと。与えっぱなしの自分にならないと。
真の神さまを与え続けるっていう、本心の自分になった時に初めて束ねられる。小さい自分が全体を束ねるわけにはいかない。
やっぱり大きい自分が束ねるの。だから、真祈りを祈り続けるっていうことが、いかに大事なことか。
本当の価値ある力のあるものか。ありがとうございますを、ただ淡々と唱えるだけでいい。
それだけで、大きい自分になって、違いが分かって、全体を束ねて、無色透明の自分に自覚が戻る。

価値は、どんどん大きくなる。変わる。同じ価値だったら進歩してない。幸せでも毎日大きくなってないと。
毎日毎日幸せがどんどん大きくなっているのを感じないと。必ず、幸せを加えていかないといけない。
幸せが減っていくって考えたら、大間違い。毎日毎日大きく増えないと。だから、幸せを求める心では、絶対大きくならない。
与える心でもまだ足りない。本当の支えるっていう、真の神さまを中から与え続ける、支えるっていう気持ちになった時が、
毎日幸せが大きくなる。日に日に、一瞬一瞬、幸せが大きくなる。真の神さまを与え続けて、真の神さまで埋め尽くして、
真の神さまだけにしてしまう。全て真の神さまだけって言えないと。本当に完璧なすがただけ。言葉通り、真の神さまだけ。

言葉通りに感じるの。言葉通りにみんな違いが分かるのも、言葉通り。
普段、マイナスの言葉を一杯使う人は、マイナスを積み重ねた自分になっている。本当にそう。
プラスの言葉を常に使える人は、プラスを積み重ねた自分だから、プラスが飛び出す。
その人の使っている言葉を見たら、大体その人がどういう状態か予測がつく。
マイナスの言葉を一杯溜めて、それが集積して、マイナスの思いの心になっている人にとっては、見るものも、聞くものも、言うこともマイナス。
それがその人の自由意志で選んだ言葉の通りになっている。でも、逆にすれば、またすぐに変化する。
特に真祈りの、真のプラスの言葉を駆使するという状態に入ったら、過去が全部消えるから。
過去のマイナス、無限のマイナスが一瞬に消えるから。本当のプラスだけに変わる。

だから、祈り言葉の凄さが、本当にわかったら、奇蹟の連続になる。掴んで奇蹟が起こったっていうのと違う。
死んだ人が生き返ったとか、そんなのは掴んだ上の、偽の奇蹟。そんなものは奇跡のうちに入らない。
ミニミニ奇蹟。本当の奇蹟は、一瞬一瞬新たな、神さまの一大循環の相象(すがた)
神さまが与えてくれる、新たなる全徳の無限の輝きが無限に無限に一杯って、一瞬で大きく変化している奇蹟。一大奇蹟
真祈りを祈る人にとっは、本当の一大奇蹟の連続。この世でどんな変化したって、奇蹟のうちに入らない。
いくら幸せと言っても、無条件の幸せと比べたら幸せのうちに入らない幸せ。
 

もういつも、無限のスピードで、滝になって降り注いでいる。その中にいながら、感じないのは、過去を掴むから。
過去を掴む思いの心は、邪魔をしてスピードを遅くする。だから、速さについていけない。無色透明になったら、全部わかる。
無色透明の自分には邪魔するものは何もない。だから、一切の過去を掴まなかったら、我が生まれないから、
我の無い自分が、無色透明の自分。流れがすっとわかる。だから、過去を掴まないことだけ。過去を掴んだのが、小さい自分になるから。

もう、マイナスは相手にしない。真の神さまだけを言葉にし続けたら、無色透明の自分に戻る。
虚の世界を相手にしたら、虚の世界に巻き込まれる。「言葉通り」の実行で、1番大事なところはそこ。根本。
いくらマイナスをプラスに変えようと頑張ってもダメ。抜けられない。だから、真の神さまだけって断定して、ありがとうございます。
そしたら、本心の自分に戻る。だから、祈りと真祈りの違い。真祈りは、真の神さまだけって断定して祈る。ここへ進んだら本物。
 

求める心も、受ける心も、与える心も、いらない。本当に神さまのお手伝い、神さまと一緒にっていう、支える心、支える生き方が一番大事。
真の神さまを与え続ける、中から与え続ける、これが支え合いだから。支える生き方だけ。

違いがちょっとわかった?違いがわかったら、その違いのところへ上がっている。
例えば、ここへ来た人でも、お祈りは、どこで祈っていても同じと言ってここから去っていく人がいる。違いがわかってない。
ここに光の柱が降りているって、わかっていないから、どこへでも光の柱が降りているって思っている。
本当に天岩戸が開いて、光の柱が立っているのはここしかない。
それを、業想念の雲が一杯のところへ行って、どこで祈っても同じと言うんだったら、
その人にとっての同じは、「業想念が一杯」というところが同じなの。その人はどこで祈っていても業想念一杯の祈り。
違いの分かった人は、どこへ行っても違いがわかる。助けを受けるの。光の柱が降りているところと、ちょっと離れたところの違いもわかる。
でも光の降りているってわかった人は、どこで祈っていても、距離が違っただけの違いはあっても、光を受けられるの。
違うという人ほど、違いがわかって、違う受け方をする。だから余計選ぶはず。余計、より受けやすい場所を選ぶ。
一番最短コースを選ぶはず。違いの分からない人はどこでもと言うから、レベルがどんどん落ちて、
違いのあるところからの助けが受けられない。だから言葉通りなの。どこでも同じという言葉、マイナスの同じという言葉が、
どれだけ大きいマイナスか。違いがわからないということは、大きいマイナスの言葉。どこでも同じなんて言ったら絶対ダメ。

真の神さまと共に、どこででも真の神さまと一緒って言って、実際自分が本当に真の神さまの違いがわかっていたら、
どこで祈っても違いがわかるから、違うものからも助けを受ける。でも言葉だけだったら、言葉だけ。
まだ自分が、違いをまだわかっていないから、いくら言葉で言っても、違いがわかるまでは違う。
だからどこで祈ってもいいのではない。やっぱり光が大きく降りているところを選ばないと。
本当の意味で違いが実感できるまで、助けを受けられない。

違いがわかった人だけ、違いがわかった程度に受けられる。だから違いを見極めないとダメ。
ここもいつも同じ光は降ろしていない。お祈りをする時間は、お祈りする時間で、お祈りの時間に合わせて特別に光を降ろす。
お祈りをしてない時、ここで色々喋っている時なんて、同じ光は降りない。時間でも全部違えている。
来る人に対してでも、全部違えている。だからこれも時間・空間・人によって全部違う。
だからその違いを全部見極めて、真の神さまが大きく降りている時の光を受けるように、自分が気付いただけ、受け取れる。
だからいつも違うの。同じではない。違いがわかるほどいい。違いがわかっただけ、違うところからの助けを受け取れる。
どこが違うかって見抜かないと。違いがわからないと受け取れない。

例えば宝石が一杯あっても、みんな石ころだと思っていたら、どれを選ぶかって選べない。
ダイヤモンドやサファイヤやルビーってあっても、ダイヤモンドをわかっている人はダイヤモンドの方をさっと選ぶ。
この選ぶ能力がついた人は、一番いいものを選ぶ、受け取る。だからその違いを、どういう風に違うかわかろうとしないと。
わかった時は、ちゃんと受け取れる。わかったら受け取っているの。


(平成25年10月26日のお話 第2部)