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一枚の一万円でも、どれだけ違いがあるか。今日みんなに勉強会で挙げてもらったのは、まだ浅い捉え方。
でも浅くても無限通りの捉え方がある。例えば、一つ、働いて得た一万円とする。

いつ働いたか。冬の寒い時か、夏の暑い時か、何年前か。時間も無限にある。
どこで働いたか。南極で働いたか、北極で働いたか、砂漠で働いたか。場所も無限通りある。
誰が働いたのか。おじいさんか、おばあさんか、子供か。これ無限通りある。
どんな働きをしたのか。石炭を掘ったのか、海の塩田で塩を集めたのかとか、働きも無限通りある。

そして、お給料、お礼としてもらったこのお金が、どう循環してきたか。いつ製造されたか。
それがどこをずーっと循環して回ってきているか、どういう因縁をくっ付けてきているか。これも無限通りがある。
一つの働いたお金っていっても、沢山の無限通りがある。全部違う。いかに浅く同じように見てしまって、これが癖になっているか。
お金一万円の紙一枚ですら、そうなの。

そしたら、一人の人って見る時に、どれだけ大きい違いがあるか。一万円札ぐらいじゃない。
人はもう、絶対の中心から、色んな神様の働きかけによって、大きく一瞬一瞬変化している。
歴史も、無限の昔からある。無限のものから、色んな働きを受け続けている。
それも浅い意味ではない。入れ子構造的、大きい働きで、一瞬一瞬変化させてもらっている自分。
今の自分を見るだけでも、過去の歴史をたどったら、無限の無限通り。
だからもうこの世では浅く、ちょっとした違いというぐらいに見るんだけど、それがいかに漠然としているかということ。

例えば、霊媒、神がかりが降りるとする。今この肉体の人間の霊媒に、どういう神さまがかかっているか、どういう霊魂がかかっているか、
どういう動物霊が憑依しているかとか、全部を見抜かないとダメなの。見抜けなかったら、騙される。

あの世に心を向けて、あの世の波に合う人が霊媒になる。そういう修業をした、あの世の波に合いやすい人が、霊媒体質。
そういう人が、無念無想になって、色んな霊魂に波が合ったのが、すっと降りてくる。
高い神さまだったら、同じ肉体に降りても、威儀端然として、厳かに、厳粛なすがたで降りてくる。一瞬に変わる。
普段のその人じゃないようなすがたを取る。動物霊がぱっと取りついたら、座ったままで天井まで飛び上がる。
本当に実際、それが起こるの。言うことも、心境に応じて全部違う。
どういう神さまが、人が、動物がって、何が神がかりしているかで内容が全部違う。

だから外見から見てもわからない。奥を見抜かないと。奥を見るのでも、動物霊が化けているかもしれない。
神通力のある動物霊は、神さまに化けているの。浅い所だけ見て、ああ素晴らしい女神さまって思っていたら、
キツネが化けたすがたかもしれない。更に奥を見抜かないとダメなの。そうしないと、神がかりのお告げを受けたからって、みんな間違うの。

一人の人が言うことが、どこから来ているか。普段の一人一人がそう。その人が言っているのか、
背後から色んな働きかけがあって言わされているのか。みんな違う。本当に霊媒状態になった時は、あの世の何かが働きかけて、
そのままスッと出てくるけど、普段でも、色んな働きかけが来ている。憑依現象もあるし、強い念力だったら、念力でみんな動かされてくる。
光でも光が強かったら、光によって大きく動かされてくるし、一人の人を見ても、背後にどういう働きかけが加わってきているかを見抜かないと、間違う。
でもこの違いも、浅い表面から見た浅い捉え方。奥からじゃないからまだまだ浅い。でもその区別は必要なの。それが出来なかったら、騙されている。

一人の人が悪いことをしたとする。その悪いことをしたのでも、悪いことと見るのは、一つの捉え方。間違いかもしれない。
大きいマイナスを小さく消すための、そういうすがたで出てきたとしたら、どう思う?菩薩行になる。
だから本当は悪いって言えない、反対になる。だから実際一つの行いにしても、どういう働きかけがそこに出て来ているか。
これはやっぱり無限通りある。だから受ける側から見る場合でも、全てが無限通り、無限通り、無限通り、って大きく分かれていく。

これが今度与える側に立った時にどうなるか。真の神さまの側から、全てに必要なものを与えるっていう立場に立った時は、もっとすごい。
だから根本は、神さまの愛がどれだけ大きく深いか。同じものを、一回与えただけでは、幸せは小さい。
例えば一人の人に対して、大きいプレゼントを一回与えた。一回与えただけでは足りない。だからずーっと与え続けないとダメ。
その時に、同じものを与えたら味気ない。必ず違うものを与えないと。そしたらどれだけ変化するか。
その受けている人も変化するし、与えるものも変化しないと。やっぱり、人の変化に応じてまた与え方も変わらないとダメだし、
一人の人に対してでも、ものすごい変化が要る。更にまた無限の人がいたら、同じ与え方はない。
同じように与えるのだったら、一人いればいい。二人以上は要らない。だから一人ひとりに全部違う与え方をするの。
それがまた無限通りに分かれる。

だから神さまがどれだけ愛が深いか。同じものは絶対与えない。また同じものは絶対繰り返さない。
これが本当に出来るってすごいこと。だから例えばジグソーパズルで無限のピースがあったとしたら、全部ピースが違う。
バラバラになっているのをピタッと当てはめるっていったら、すごいこと。必要なところへ、必要なピースをパッと持ってこないといけない。
まず無限の人がいて、そこへ必要なものを与えるって、そのジグソーパズルのピースを加えるぐらいではない。
一回ピースを与えて満足ではないの。一つのピースの無限倍、素晴らしいものを与える。それを一瞬一瞬変えて与える。
どれだけ愛深い働きを、ずーっと繰り返しているか。

一人ひとりをバラバラに見てもそう。それを入れ子構造的に与えるってもっとすごい。それで全体が本当に調和しているの。
一大調和のすがたをとる。本当に適材適所のすがた、働きをして、何一つ同じもののない、何一つ同じことの起こらない、
全体が適材適所に配置された、最高の理想の調和のすがたをとっている、本当に完璧なすがた。一瞬止めたすがたでも、完璧。
それが無限のスピードで循環する、流動体の完璧さ。

ここまでいって、神さまのすがたなの。これが一大循環の相象(すがた)。これを神さまは永遠に与え続けようとしている。
だからその違いを知るのは、救いに立つため、というのがまず段階としてあるんだけど、
救いに立つためっていうのは、真の神さまの愛の深さを、本当に感じられる自分になるため
う側に立った時、神さまの愛がよくわかる。神さまの愛のプレゼントを本当に受け取って味わえる自分になる、
本当の神さまの与えて下さる無条件の幸せを感じ取れる自分になる、そのために違いをしっかりと見極めていかないとね。


(平成25年10月26日のお話 第1部@)