真のありがとうございます 

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Q:「一人で祈ることが悪いということではなく、自分一人だけで祈っていると思うことが悪いという解釈で
いいのかなと思うのですけど、いかがでしょうか?」
 

A:それもやっぱり、自分というのは我。小さい自分になってしまうから。小さい自分では、何の力もない。
自分というのが消えないとダメ。だから、一番大きい真の神さまだけというふうになってこないと。
やっぱり言葉の使い方が、小さいものを言葉にしたら、自分自身が小さくなってしまう。だから、一人でと言うと他にも何かある。
 

Q:「みんなやっぱりいつもこうやって、集まって祈れるわけではない。やっぱり一人でいる時は、一人で祈らざるを得ない時もあると思うのですが。」

A: それは、違う。先に虚の世界を掴んでしまっている。虚の世界のこの世の低い世界を掴んでしまう。
バラバラの世界を言葉にしてしまう。まず、言葉の選び方が間違っている。最初から完璧な1つの流動体としての神さまと言わないと。
バラバラに見ているすがたが、虚の世界の低い世界だから。虚の世界の高い世界は、まだバラバラではない。
与え尽くし合って、真実の世界には及ばないけど、ある程度、循環するすがたをとるから、虚の世界でも大きい自分になれる。
だから、やっぱり言葉。


Q:「例えば、自宅の1室で祈っている場合、みんなと一緒に祈っているのだという言葉を使っていれば…」

A:自宅を忘れたほうがいい。やっぱり、自宅と言う言葉が、比較して分けてしまうから。
真の神さまだけ、真の真実の世界だけと言うほうがいい。まだ、受ける側に立っているから、バラバラにこの世から見てしまう。
本当に全ての全てに与え尽くすという側に立ったら、向きが反対になるから、小さく見えない。
与える側に立ったら、全ての全てにと言うと、大きくなる。大きくなったら、絶対の中心に立っている。
絶対の中心がどこかを探して、小さい自分が絶対の中心に戻れるかというと、戻れない。
だから、全ての全てに大きく与え尽くそうという自分になった時に、絶対の中心に立っている。
大きく与える立場が絶対の中心。だから、全ての全てに真の神さまを与えようという立場が絶対の中心。これは、言葉通り。
みんな、小さい自分が絶対の中心に戻ろうとして一生懸命頑張っていても、戻れない。違う。
全てに真の神さまを与え続けようという立場に立ったら、絶対の中心になっていく。
だから、真祈りを祈るだけ。ありがとうございますが、全てに真の神さまを与え続けているという意味で唱えたらいいだけ。
それをしているうちに、絶対の中心に立つ。苦労したらダメ。淡々と祈り続けて、絶対の中心に戻る。戻っていく。


(平成25年10月5日のお話 第2部A)