真のありがとうございます 

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 真の神さまを知る。真の神さまは全体。全ての全て。部分だと真の神さまではない。
全体を知るというのは、やっぱり難しい。受ける側に立つと、部分しかわからない。与える側に立った時、初めて全体がわかり始める。

例えば、全方向から光が来ていると見る時、受ける側は表面の全方向を見る。
この一つの一点の奥が見えていない。一点の奥がずっと無限に、ずっとつながっている。その奥の全てが見えていない。
表面だけの一点しか見えていない。それが全方向にあっても、受ける側は、表面のほんの一点だけ。
今度与える側に立つ時、全てに与えようと思ったら、直線ではだめ。螺旋構造で与える。
この一点の奥に隠れている無限のものに、光をここから与えようと思ったら、全てに与えようと思ったら、螺旋で与えるしかない。
この一点の奥全部に無限に、螺旋構造で全部に与える。それが全方向になったらいいわけ。与える側に立ったらわかる。
受ける側では、やっぱり表面の無限分の一になって見えない。わからない。

この真祈りが、なぜ我を消せるかというのが根本の問題。いつも大事な問題としてある。
真の神さまは、全体。全ての全て。真の神さまにありがとうございますを捧げるというのは、全ての全てに捧げないとだめ。
全てと別個に真の神さまがいるのではない。全体が、全てが真の神さまそのもの。
だから、全体にありがとうございますを与え続けられたら、真の神さまを与えたことになる。真の神さまは全部受け取ってくれる。

この虚の世界の全部、真の神さまにとっては、必要のないもの。神さまは虚の世界を必要としていない。
虚の世界の全て、ないものは必要としていない。真の神さまは、虚の全てを受け取るわけにいかない。受け取れない。
無いものはないから。真の神さまが受け取ってくれるのは、真の神さまだけ。

真の神さまには、絶対対立がない。分れてないから。全てが、例えば、質問して答えるのも自問自答。
自分が質問して自分が答える。自分が与えて、自分が受ける。これが、真の神さまのすがた。
全てがそういうふうになっているから、真の神さまが真の神さまに真の神さまを与え続ける。虚の何かを与えてどうのこうのではない。
虚の世界の我を消してもらうために、この命を神様に捧げますと捧げても、真の神さまは無関係。受け取りようがない。
ないものは受け取れない。本当はそう。

だから、本心の自分が、真の自分が、真の神さまを与え続ける。これで受け取ってもらって、本当の循環になる。
そしたら、虚の世界の一切の我がどうなるのか?もし、我という埃があっても、真の神さまを捧げることから見たら、本当の無と同じ。
虚の世界全体が本当の無と同じ。一点の埃にも満たない。そしたら、ありがとうございますにくっついてついていっただけ、瞬間に消えて無い。
別に虚を消そうとはしない。もしあったとしたら、勝手に消えて、勝手になくなるだけ。

だから、虚を消す、我を消す、一番の方法は、真祈りを祈るだけ。我を消そうと思ったら、間違っている。
まず自分が、虚を認め、我を認めている。全て言葉通りになるのが法則。
自分の選んだ言葉通りに、自分の駆使する言葉通り全てがなるというのが法則。
だから、自分がどういう言葉を選んでいるか。真の神さまだけを選んだらいい。ありがとうございますの一言を選んだら、それだけで全て。
ありがとうございます一言で、全部叶えられる。

ところが、余計な言葉を加えると、それが真のプラスの言葉ではない場合がある。そしたら、言葉通りに感じる世界に落ちていく。
虚のプラスの言葉だったら、虚のプラスの世界に落ちる。マイナスの言葉だったら、マイナスの世界に落ちてしまう。
どんな一言も全部、言葉通りになって、言葉通りに感じるようになる。

だから、どれだけ真剣に選び続けているか。本当に真剣に唱え続けているか。これだけをいつも試される。
常に、真の神さまを選び続ける。ありがとうございますを唱え続ける。これさえできていたら、真の神さまだけ。
真の支え合いをどうのこうのというよりも真の支え合いだけと言えばいい。他は何もない。真の支え合いだけ。
それは一大循環の相象(すがた)そのものが、真の支え合いのすがた。真の神さまが真の支え合いのすがたをとっている。
一大循環の相象を取り続けている。

 

(平成25年10月5日のお話 第1部@)