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真の神さまの本質には、一切の対立がない。また一切の差別がない。対立や差別があったら、真の神さまとは違う。
対立の世界に自分を置いたら、真の神さまが遠くなる。また差別の中へ自分を置いたら、真の神さまを遠ざけてしまう。
拝めない原因はそこ。これはもう、過去を掴むとだめ。過去を掴むと対立する。固定するから。固定して、部分と部分を比較したら対立したりする。
また差別が生まれる。だから過去を一切相手にしないこと。真の神さまが一大循環の相象(すがた)いうのは、いつも新たに新たに、変化する
移り変わる。無限のスピードで新たに新たに出てくるすがた。一番新しい、一番大きいすがたが、真の神さま。古くなるほど小さくなる。
過去を掴むと、掴むほどどんどん古くなって小さくなっていく。過去を掴んでいるって、過去も古いし、これを更に掴みかえても、更に古くなる。

真の神さまをしっかりと拝む、認める。拝むというのは、一体化するという意味。拝むという字が、そう。
てへんに手って書く。手が二つ合わさるという意味。バラバラのものが一つにならないとだめ。自分と神さまとが分かれたらだめ。
神さまと自分とが一つにならないとだめ。そうすると、いつも自分が神さまの側に立たないとだめ。
もし、真の神さまとして全てを拝むのだったら、自分も真の神さまの側に自分を置かないとだめ。立場を別なところに置いたら拝めない。離れてしまう。

支え合うお祈りの必要性、なぜ必要かというのが、ここが一番大事なポイントになっている。全てを一つに束ねないとだめ。
全てを一つにしてしまわないと。もうありとあらゆる全てを一つにする。
だから、バラバラに部分に分かれている、それを一つにしたら真の神さまに戻っていく。

真の神さまの本質は、全てが、神さまと一体の悟った本心の自分の全てが、力を合わせている。全てが力を合わせて一つになっている。
全部さざれ石が巌となるというすがたをとる。それが真の神さまのすがた。一大循環の相象も同じ。
みんなが与え尽くし合って、一つになっているすがた。だから、完璧な与え方、愛のすがたをとっている。

虚の世界で、この世で色んな学びをする場合でも、対立したり、分かれて差別のあるすがたを全部一つにまとめていくと、プラスに変化していく。

例えば、天地人ってある。普通は人の心が、天の気象に映って地の事象に降りて、また人に影響を与えていくという説明をするのだけど、
本当は、天と地と人と、天地人が一つと見た方がいい。人が全てを支配するという意味ではなく、
天も地も人も真の神さまの働きの為に一つになって、力を合わせているというふうに見たら、
天の働き全部をプラスに見たら、地の働きの全てをプラスに見たら、人の働きの全てをプラスに見たら、
3つが合わさったら大きい力を発揮して、プラスばっかりに変えてしまう。これを人だけがというと、力を合わせてない。
そうするともう、真の神さまには近づけない。だから、何を見ても全部、全ての力を合わせようとする方がいい。全てを合わせてしまう見方が正しい。

また別な言葉で言うと、言葉と心と行いがある。まず言葉が先で、言葉を積み重ねて、心、信念になって、形の行いに出てくると言うのだけど、
これも本当はバラバラに見ないで、どちちが先と言わないで、一つに見た方が正しい。言葉もプラス、心もプラス、行いもプラスって。
どちらが先ではなく、全部がプラスを与え尽くし合っている。全てを一つに合わせて、真の神さまの働きとして一つに大きくなっていく。

言葉をプラスにしたら、必ずプラスになる。行いも同じ。プラスにしたら、心も言葉もプラスに変わる。
どこから出発しても、他の二つに大きい影響を与える。言葉だけが先で、心が後について、行いが出てくるって、そうではない。
もともと神さまの世界は、3つが一つ。一つになって同時に現れる。虚の世界では、ずれが少し生ずるから、言葉が先でと言うのだけど、
でも神さまの世界は同時に3つが一つになって働く。だからもう常に、行いから始まってもいいこと。

例えば、朝早く起きるとする。朝早く起きるというのは、プラス思考。心も喜び勇める、言葉もプラスに変化する。
ところが、朝起きをやめて、ずるずる昼寝してしまうと、昼まで寝てしまうと、心も後ろ向きになる。
言葉もやっぱり、マイナス思考になる。だから、どこから出発するのもプラスと言わないとだめ。
プラスに力を合わせていったら、全部プラスに変わる。

三本の矢という例えもそうだし、鼎の三脚もそう。天照大御神、ツキヨミノミコトもスサノヲノミコトも三神が一つ
というのもみんなそうなのだけど、全てを一つに合わせた時が、真の神さまに戻っていく生き方。
これが3つではなく、無限のものが力を合わせたら、支え合い。だから、支え合いの祈りを徹底していくと、全てを真の神さまとして拝める。
認めることができる。それで、支え合いを目指す。

常に、一瞬一瞬新たに、絶対の中心から、全ての全てに対して、真の神さまを密かに与え続ける。
密かにというのは、本当に必要なだけを与え続けるすがた。出しゃばらない。
自分の正体を隠して、本当に必要なだけを与え続けるから、余分な無駄なものが生まれないし、循環が本当の流れに早く戻る。
的確に必要な時に必要なものを与えてもらえるから、幸せが本物。その与え方が絶対の中心からだと、中から真の神さまを与え続けて、
本当の芯柱として、中から支える働き。本当の働きを発揮するように働く。全体が力を一つに合わせている。その全体のすがたが真の神さま。

肉体人間を一人とらえて、この人を、真の神さまとして拝むという時に、
まず自分が一人、この人を真の神さまとして拝むというのでは、まだ、力を合わせてない。
そうすると、自分に少し我の心が残っていたら、我の色眼鏡を通すとか、我を鏡に映すように見てしまうとか、やっぱり出てくると思う。
そうすると拝みにくい。拝みきれないところがある。でも、みんなが、本心のみんなが、その一人の人を拝み続けてくれているとしたら、
自分一人で足りないところを全部カバーしてくれる。それも全ての全ての本心の人がその人を目指して拝み続けてくれたとしたら。
本当はそう。一人の人に対して、全てが真の神さまを与え続けてくれている。祈り続けてくれている。本当のすがたはね。真実の世界はそう。
拝み続けてくれている。祈り続けてくれているすがたが、真実の一大循環の相象(すがた)ってる。

だから、一人の人をみんなが拝み続けて、真の神さまとして認めてくれている。
だから、自分一人拝まなくても、祈りを忘れても、真の神さま。そのぐらいの気楽な気持ちになった方が、
自分の足りない不足した分を全部、無限倍にカバーしてくれているというふうに見ると、みんなの力を一つにまとめたことになる。

 

(平成25年9月28日のお話 第1部@)