真のありがとうございます 

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 虚の支えと支え合う、真の支えと支え合う。これは違う。虚の世界の支えるというのは、足りないところを補って、外から支える。
力のない人を支えるとか、上の人を下から支えるとか。それも、支え方が外から。

真の支えるというのは、少し違う。真の神さまを与えて中から。中心から、絶対の中心から、中から支えて、芯柱を入れる、筋金を入れる。
これが真の一人立ちができる支え方。ここが違う。だから、真の神さまを与えるのが真の支え。そしたらどうなるか。
真の神さまを与えたら、その人は真の神さまそのもの。ここまでいかないとだめ。
そしたら、徹底して、この人は真の神さまなのだと拝みきる。断定する。信じ切る。信頼しきらないとだめ。
そして、真の神さましかない。真の神さまだけなのだ、一切のマイナスはないのだ、虚はないのだ、と断定的に祈らないと。大抵ここで間違う。

真の神さまを与えたと言うだけだったら、与えてない。まだ信じきれてない。
まだ表面の虚のすがたを掴んで、そっちの方に心を向けている。本当に真の神さまそのものしかない、
真の神さまだけなのだと、そこまでいったら本物になる。奇跡が起こる。そこを目指さないと本物の力は出ない。

真の神さまの助けは常に必要に応じて、必要なだけ。自分がそこまで本当に必要とするかどうかで決まる。
だから、背水の陣を敷いて自分を絶体絶命の立場に置かないと、その必要性が出てこない。絶対真の神さまが必要なんだって。
万病を抱えて、今瀕死の状態で死ぬかもしれないという時に、背水の陣を敷いて、真の神さまを呼んで、病気を全部消しきらないとだめ。
その時に、真の神さまだけって、本当に断定的に祈れたら治る。本当に真の神さましかないのだ、真の神さまだけなんだ、
全て真の神さまそのものだって、祈りに祈らないとだめ。断定しないとだめ。ここまでいったら支えの世界に入る。

だから、真の神さまを全部に与え尽くして、全部を真の神さまそのものという風に見ていくこと。心の目でしっかりと認めていくこと。
これが真の支え。それで支え合うというのは、それを入れ子構造的な形で、認めること。小さい支えではない。
入れ子構造の支えが、支え合う。全ての支えを大きく一つにまとめる。入れ子構造的にまとめる。
幾段階も無限の段階にまとめてしまう。本当の盤石の支え。そこに出てくるのが、これが支え合い。

祈りでいうと、真祈りの世界に定義と真議と本義がある。これが支えの世界。奥義と秘奥義が支え合いの世界。
支えから支え合いにまで上っていく。絶対の中心に近づくの。虚の世界は、過去を小さく掴んでいる。
どれだけ大きい我と言っても、小さい我。過去を掴んでいる我がある。自分のものがある。
六道は、求めるだけ、欲の心だけ。声聞・縁覚でやっと、全てをプラスに思い返して、プラスに受けようとする。
上手に受けようとする世界。菩薩・仏は、自分の持っているプラスを与えようとする世界。

真の神さまから受けたのでも、自分の持っているものは小さい。真の神さまを与えるのとは全然違う。
虚の世界では、形あるものに与えようとするだけ。だから外からの支え。与えるのでも、外からの与え方。中からではない。
全部外からの与え方。虚の世界は全部そう。五感六感の世界は全部そう。外から与えて、必要なものを与えて支えようとする。

支え合いの練習、これは虚の世界の話。外からの支え合いの練習。真の世界の、真の神さまを与えての、中からの支えとは、ちょっと違う。
でも、虚の世界も練習だから、やっぱりしないとだめ。本物になるために、虚の世界の支える練習、支え合いの練習、これは絶対必要になる。
だから、外からも支え合わないとだめ。それで色んな勉強、色んな範囲の勉強、広い範囲の勉強をした方が、早く本物に戻る。
だから、行き届いた支え合いの練習って大事。

みんなの持っているものを全部吸収するために、支え合いが絶対に必要。
全部の持っているものを全部自分のものにするのが、虚の世界でも支え合いの方。
みんなの持っているものを全部自分のものにしてしまうのが、大きく一つにまとめるのが支え合いの方。
自分が一人みんなを支えているというのは、孤立しているから、なかなか大きくなれない。

でも、支え合うとなったら、みんなのものを自分のものに吸収できる。
一人一人の持っている能力は、それぞれ全部違うけど、それぞれの能力を自分のものにできる。
全部まとめて自分のものになってくる。必ずそうなる。だから、虚の世界でも支える、支え合うって、これは練習としても絶対必要。
絶対しないとだめ。だから、単に与えるという生き方では、虚の世界でもまだ低い。虚の世界でも支える、支え合うという練習をしたら、上の方。
一番上になる。本当の支え合うとなったら、虚の世界でも一番上。

でも、まだ本物ではない。練習段階は本物ではない。真実の世界に入ったら、ここでもう一切の我がない自分にならないと、真実の世界ではない。
だから、我を消すというのは、いつの時も大事。我をどんどん消してもらうために、どう生きるかというのも必要。
本当に我を消すのは、真の神さまにお返しして消える。一大循環の中に入ったら消えているのだけど、止めて我を積み重ねて、
もう一回我を消すのは、循環の流れの中に入れて、真の神さまにお返ししたら一切の我は消えていく。

だから、真の神さまにお返しする、返すということが大事。これは、真の神さまに届けないとだめ。
そうでないと返したことにならない。例えば、神さまからもらったものを、真の神さまに届ける。
この世だったら宅急便を使ったり、郵便の配達で送り返せる。そうでなかったら、自分が直接持っていかないとだめ。
直接真の神さまに届けられる?過去の自分の掴んだ一切の我、自分のもの全部を、直接真の神さまに届けるのは大変。
届ける方法は?ありがとうございますを真の神さまの名前として、真の神さまそのものという気持ちで、
ありがとうございますをしっかり唱えて、与える生き方をとった時だけ、自分の我や自分のものがそれに引っ付いて、真の神さまの方へ戻っていく。

何をするにしても、どれだけ恩返しする、愛に生きる、絶対奉仕に生きるにしても、
どんな仕事をするにしても、徹底して、真の神さまを、ありがとうございますという名前として呼び続けて、与え続けて、お返ししないとだめ。
それでないと、なかなか真の神さままで届かない。途中で終わったら、また自分に戻ってくる。消えずに我が増えて戻ってくる。

だから、この世で人に施す・与える、ボランティアや奉仕をしても、真の神さまに与えて、お返ししていなかったら、
全部もう一回循環して戻ってくる。与えたけど、途中でみんなの上に自分の思いがかぶさって、そのかぶさった思いがまた増えて、自分の方に戻ってくる。

だから、我や思いはなかなか消えない。増える一方。本当に真の神さまに届けるにはどうしたらいいか。
神さまの世界でも、守護霊さん、守護神さん、救済の神さまって順番にはしごでつないで、
真の神さまにつないであげようという神さまが一杯いる。そういうのを活用するのも大事だし、神さまが直接降りてくるような行事がある。
ありがとうございます護摩がそう。そういう時を活用して、しっかりと自分を与え尽くして、お返しするというのが必要。

普段から、やっぱり神さまの為に生きるのが必要。真の神さまの願っていることを、一生懸命みんなが手を取り合ってして、
そこへ自分を投げ入れていくというのも大事。そうすると同じ与えたのでも真の神さまに届く。届いたらスッと我が消えていく。消してもらえる。

大きい目的を持って、みんなで手を携えて、そして与え尽くしていく。なかなか一人だったら、そこまで普通ではできない。
真の神さまに自分の全てを捧げるのは、ものすごく厳しい。本当に全部投げ出せるかって考えたら、本当に厳しい。
この命は要らないって本当に投げ出せるか。断食するだけでも大変。何も食べずに頑張りますと言って、断食を100日できるかどうか。
本気でしないと。本気でしないと届かない。それぐらいの気持ちでしたら届く。届いたら神さまの助けが循環するから、断食しても死なない。

全てがそういうふうに真剣に神さまに届かせるかどうか。それが一人では難しい。だから、みんなが手を携えないとだめ。
みんなが助け合ったらできる。そこに相乗効果の助けがいる。お祈りだけではない。作業もそうだし、色んな面全部が同じ。
我を消すのでも相乗効果の我の消し方が要る。お互いが我を早く消したいという気持ちの人が集まったら、早くみんなの我が消える。

支えるという気持ちは我を消す方法。自分を出さない、一番下から、虚の世界でもそう。
一番下から、みんなを支えて、必要な働きをしようとする。だから、みんなから支えられて上げてもらった時は、自分も遠慮なく上へ出て、
必要なことをするのだけど、でも自分からは出しゃばらない。これが我を消す一番の方法。
我が出ると、上へ出ようとする。また、我があると引っ込もうとする。どちらもよくない。
でも、支えるという働きの時は、我を出せなくなる。全体を見ながら必要なことをする時に、みんなを支えて、みんなに力を発揮させないとだめ。
だから、適材適所にみんなを配置できる練習。その時その時に必要な適材適所の配置、配列がいる。

 
(平成25年9月21日のお話 第1部@)