真のありがとうございます 

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 本当に自分が何を必要として願っているか。本当に虚の世界の生き方でいいのか、真実の世界に行きたいのか。
儚い虚しい生き方でいいのか、永遠の本当に安らいだ生き方がいいのか。

表面に、枝葉にとらわれたらダメ。まず根本を定めること。これも一瞬一瞬新たに。本心は、いつも新たな自分。
過去は一切無関係だから、新たな自分。新たに定めること。一瞬一瞬、真祈りに生きる、真の神さまを与え続ける。
これも惰性に生きるのではない。一瞬一瞬、新たに新たに、与え続ける生き方。やっぱり新たにを忘れると、過去の惰性に流れやすい。
過去を掴みやすくなる。だから、全て新たに。新たなる真の神さまだけ。新たなる真のプラスだけ。
常に、全てに、新たなる一大循環の相象(すがた)だけ

一番新しいのが本心の自分。古くなったら我の自分。だから、一番新しいのが絶対の中心に立った自分。
一番大きいところに立ったのが、一番新しい自分。本当の自由自在心。全てに対して、真の神さまを大きく大きく、無限に無限に大きく与え続ける自分。
どこにも縛りもないし、マイナスなんか絶対に認めるわけにいかない。大きいプラスを与えようとする自分にとっては、マイナスは絶対ないと言える。

無限に無限に大きいプラスを与え続ける自分だったら、もうマイナスも闇も本当にない。闇なんてない。もう相手にしない。
だから、一瞬一瞬新たに与え続ける自分。でも、与え続けなかったら途切れる。連続しない。途切れてしまう。
だから真の神さまも、真の自分も、与え続ける生き方を取る。絶対途切れないように、連続させるために。
みんなで支え合う、入れ子構造的無限倍の大きい相乗効果を起こす。連続させるために。
そしたら、循環が止まらないから、お祈りが湧くように出てくる。

本心の自分の真祈りは、湧くように出てくるお祈り。祈らずにおれない。湧くように出てくるお祈りだから、祈り続けるお祈り。
ただ、肉体という風に小さく掴んだら途切れてしまう。本心の自分、一番新しい自分は、絶対の中心から。必ず絶対の中心から祈らないとダメ。
絶対の中心から、全ての全てに対して、真の神さまを、真のプラスを、真の一大循環の相象を、与え続けるのだという意味。
それでありがとうございますを唱え続ける。

最初は、言葉だけに思うかもしれないけど、すぐ変わる。ありがとうございますが真の神さまそのもの。
真のプラスそのものだって。一大循環の相象そのものだって。与え続けるうちに実感する。循環の相象がスッと入ってきたら、そう。
だから単なる言葉ではない。真の神さまそのもの。与え続けるのは、真の神さまを与え続ける。

みんな元々、神さまの中にいる。プラスだけの中にいる。一大循環の中にいる。
本当の自由自在心、一切の我のない無色透明の自由自在心そのもの。ただ一瞬の錯覚を起こす。錯覚というのは、正しく見てないという意味。
真の神さまの世界にいる自分を忘れること。忘れた原因は、与え続けることを一瞬忘れたから。与え続けていたら忘れない。
一瞬与えるのを忘れた時に、一瞬の錯覚を起こす。一瞬一瞬、与えるのを忘れた時に、止まったように錯覚するだけ。
でも、本当は大きい流れの中で動いている。一瞬、自分が錯覚するだけ。
無限のスピードで動いている中にいながら、一瞬錯覚を起こすのがそう。それが虚の世界。

だから、もう一回与える心を思い出したら、循環しているのに気付く。ありがとうございますを唱えること。
与え続ける心で唱えること。祈り続けるということだけが大事。後は、枝葉は、大きく眺める方がいい。
小さく見るとまたとらわれていく。それも本当は絶対の中心から大きく眺める方がいいのだけど、虚の世界だけを大きくではない。
絶対の中心から大きく眺めて、虚の世界を大きく眺める。

そしたら、虚の世界の運命の移り変わり全部を、簡単に修正できていく。勝手に修正されていく。
現実の移り変わりに一喜一憂しなくなる。本当に移り変わるものは、そのまま自然に移り変わるすがたで眺めて、放せる。
自然に移り変わって消えていくだけ。みんな押し流して消しているだけ。どれだけ早く押し流すか。
マイナスを、我を、思いを、どれだけ早く押し流すかだけ。何が現れてもいい。現れたら消えていくだけ。
プラスだから、マイナスだから、ではない。大きく速く押し流して消したら、プラスだけに変わる。

だから、善悪を決める分別心はいらない。間違い。相対に分かれる全て、対立する全て、虚のすがただからいらない。
真の神さまの世界は、全部一元的。二元にはならない。一元的だから、与えるだったら与えっぱなし。与えるだけ。
支え合うという意味も、支えてもらって支え返すではない。支えるだけ。自分は支えるだけでいい。
それもみんなの支えを合わせて、一つにして、大きく支えるだけがいい。支えてもらわなくてもいい。
支えるだけで大きい支え一つになってしまうというのが、支えること。支えてもらうという気持ちは無くなっていい。もう要らない。
神さまの方はそう。支えるだけの働きでいい。支えてもらう方は、いらない。支える方と支えてもらう方、二つに分かれない。
支えるだけで支えてもらっている。プラスとマイナスはいらない。プラスだけで、プラスが大きくなる。

だから、ありがとうございますを忘れずに、ひたすら、ありがとうございますを淡々と静かに秘かに唱え続けるだけ。
それさえ忘れなかったら、あとは自然に循環して、全てプラスに置き換わる。最初の言葉選び、一番最初の言葉選び、一つだけ。
ありがとうございます、真の神さまを選ぶ。この言葉選びだけを心掛ける。

 本当に自分が何を必要として願っているか。本当に虚の世界の生き方でいいのか、真実の世界に行きたいのか。
儚い虚しい生き方でいいのか、永遠の本当に安らいだ生き方がいいのか。

表面に、枝葉にとらわれたらダメ。まず根本を定めること。これも一瞬一瞬新たに。本心は、いつも新たな自分。
過去は一切無関係だから、新たな自分。新たに定めること。一瞬一瞬、真祈りに生きる、真の神さまを与え続ける。
これも惰性に生きるのではない。一瞬一瞬、新たに新たに、与え続ける生き方。やっぱり新たにを忘れると、過去の惰性に流れやすい。
過去を掴みやすくなる。だから、全て新たに。新たなる真の神さまだけ。新たなる真のプラスだけ。
常に、全てに、新たなる一大循環の相象(すがた)だけ

一番新しいのが本心の自分。古くなったら我の自分。だから、一番新しいのが絶対の中心に立った自分。
一番大きいところに立ったのが、一番新しい自分。本当の自由自在心。全てに対して、真の神さまを大きく大きく、
無限に無限に大きく与え続ける自分。どこにも縛りもないし、マイナスなんか絶対に認めるわけにいかない。
大きいプラスを与えようとする自分にとっては、マイナスは絶対ないと言える。

無限に無限に大きいプラスを与え続ける自分だったら、もうマイナスも闇も本当にない。闇なんてない。もう相手にしない。
だから、一瞬一瞬新たに与え続ける自分。でも、与え続けなかったら途切れる。連続しない。途切れてしまう。
だから真の神さまも、真の自分も、与え続ける生き方を取る。絶対途切れないように、連続させるために。
みんなで支え合う、入れ子構造的無限倍の大きい相乗効果を起こす。連続させるために。
そしたら、循環が止まらないから、お祈りが湧くように出てくる。

本心の自分の真祈りは、湧くように出てくるお祈り。祈らずにおれない。湧くように出てくるお祈りだから、祈り続けるお祈り。
ただ、肉体という風に小さく掴んだら途切れてしまう。本心の自分、一番新しい自分は、絶対の中心から。必ず絶対の中心から祈らないとダメ。
絶対の中心から、全ての全てに対して、真の神さまを、真のプラスを、真の一大循環の相象を、与え続けるのだという意味。
それでありがとうございますを唱え続ける。

最初は、言葉だけに思うかもしれないけど、すぐ変わる。ありがとうございますが真の神さまそのもの。真のプラスそのものだって。
一大循環の相象そのものだって。与え続けるうちに実感する。循環の相象がスッと入ってきたら、そう。だから単なる言葉ではない。
真の神さまそのもの。与え続けるのは、真の神さまを与え続ける。

みんな元々、神さまの中にいる。プラスだけの中にいる。一大循環の中にいる。
本当の自由自在心、一切の我のない無色透明の自由自在心そのもの。ただ一瞬の錯覚を起こす。
錯覚というのは、正しく見てないという意味。真の神さまの世界にいる自分を忘れること。
忘れた原因は、与え続けることを一瞬忘れたから。与え続けていたら忘れない。一瞬与えるのを忘れた時に、一瞬の錯覚を起こす。
一瞬一瞬、与えるのを忘れた時に、止まったように錯覚するだけ。でも、本当は大きい流れの中で動いている。
一瞬、自分が錯覚するだけ。無限のスピードで動いている中にいながら、一瞬錯覚を起こすのがそう。それが虚の世界。

だから、もう一回与える心を思い出したら、循環しているのに気付く。ありがとうございますを唱えること。与え続ける心で唱えること。
祈り続けるということだけが大事。後は、枝葉は、大きく眺める方がいい。小さく見るとまたとらわれていく。
それも本当は絶対の中心から大きく眺める方がいいのだけど、虚の世界だけを大きくではない。
絶対の中心から大きく眺めて、虚の世界を大きく眺める。

そしたら、虚の世界の運命の移り変わり全部を、簡単に修正できていく。勝手に修正されていく。
現実の移り変わりに一喜一憂しなくなる。本当に移り変わるものは、そのまま自然に移り変わるすがたで眺めて、放せる。
自然に移り変わって消えていくだけ。みんな押し流して消しているだけ。どれだけ早く押し流すか。
マイナスを、我を、思いを、どれだけ早く押し流すかだけ。何が現れてもいい。現れたら消えていくだけ。
プラスだから、マイナスだから、ではない。大きく速く押し流して消したら、プラスだけに変わる。

だから、善悪を決める分別心はいらない。間違い。相対に分かれる全て、対立する全て、虚のすがただからいらない。
真の神さまの世界は、全部一元的。二元にはならない。一元的だから、与えるだったら与えっぱなし。与えるだけ。
支え合うという意味も、支えてもらって支え返すではない。支えるだけ。自分は支えるだけでいい。
それもみんなの支えを合わせて、一つにして、大きく支えるだけがいい。支えてもらわなくてもいい。
支えるだけで大きい支え一つになってしまうというのが、支えること。支えてもらうという気持ちは無くなっていい。もう要らない。
神さまの方はそう。支えるだけの働きでいい。支えてもらう方は、いらない。
支える方と支えてもらう方、二つに分かれない。支えるだけで支えてもらっている。プラスとマイナスはいらない。
プラスだけで、プラスが大きくなる。

だから、ありがとうございますを忘れずに、ひたすら、ありがとうございますを淡々と静かに秘かに唱え続けるだけ。
それさえ忘れなかったら、あとは自然に循環して、全てプラスに置き換わる。最初の言葉選び、一番最初の言葉選び、一つだけ。
ありがとうございます、真の神さまを選ぶ。この言葉選びだけを心掛ける。


(平成25年9月7日のお話 第1部B)