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我って両方ある。高慢と卑下慢がある。自分のできることをするのが高慢。出来ないと言って必要なことをしないのが卑下慢の方。
どちらも傲慢と言う。業が一杯という意味。業が満杯というのが傲慢。そういう生き方を相手にしたらダメ。
本心の支え合いという気持ちになったら、全部消える。本心の自分を生きようとする、支え合いに生きようとしないと。

みんなで支え合ってという時は、自分が一番謙虚に下に降りているから、神さまのバックアップがあるし、
必要以上のことを何もしないから無駄がない。我を出したら、みんな無駄なことをしすぎる。必要性がわからない。
我は、何が必要か見抜けない。全体が見えないから。全体にとって必要なものが、本当に必要なもの。部分で必要なものと違う。
全体にとって必要なものが、本当に必要なものだから、全体の調和というのが一番必要。バランスを崩したらダメだから。

調和というのは、鼎の三脚という。調和しているというのは、ちゃんと水平に支えていないとダメ。
傾いたら不調和、ひっくり返る。だから、いつも全体を見ていないと、調和は保てない。いつも大きく全体を見て、必要なものを見抜かないと。
必要なだけをみんなで支え合ってする。

道路の草刈りでも、業者がするのはみんな全伐。山菜も薬草も、全部全滅させる。そんなことをしたら本当は良くない。
全体を見たら、薬草や山菜は、残さないとダメ。道路に邪魔する、出しゃばった分だけを切ったらおしまい。そんなに時間はかからない。
山菜、薬草を取りに来た人が喜んで持って帰れるし、車にあたるような大きい草や木の枝は払って、何も危なくない。
必要なことをするというのはそういうこと。

そしたら、色んな昆虫でも、生きていける。みんな切ってしまったら、食べるものが無くなって、昆虫まで死んでしまう。
でも、道路さえきれいになったらというのだったら、間違ったことをする。余計なことをしすぎる。
お金をかけて、余計なことをして邪魔をしてダメにする。予算がないのに借金してまでお金を使って、無駄なことをさせる。
間違いに気付いたらいいのに。草刈しに来たら、切らないでって頼まないといけない。本当に草刈りされた後は、山菜も薬草も無くなってしまうから大変。

必要なところだけをきれいにしてくれたらいいのに。道路に泥や落ち葉が一杯溜まって滑るようなところを
きれいに掃除してくれたらいいのにって思うけど、そんなことは放っておいて、無駄なことだけをする。仕方ないけど。
本心でないと必要性がわからないから。本当に必要なことだけというのが、みんなを幸せにするのに。

あまりしすぎたらダメ。仕事でも必要なだけをする。だいたい親が子に必要以外のこと、必要以上のことをしすぎる。
甘やかして、子供をみんなダメにする。必要なことだけと言ったら、赤ん坊の時だったら、お腹がすいたらちょっとお乳を飲ませるだけ。
泣いたからって、あやさなくていいの。本当に何かがあって泣いている時はわかる。赤ん坊は泣くのが仕事。腹筋を鍛えている、必要な運動。
腹筋を鍛えて、何か困って泣いているのと違うの。泣くのが仕事。発声練習。それもあー、あーと言って、光を振りまいている。
ありがとうございますにはならないけど、まだ、その一番元のあーよ。

だから、子供にでも必要なだけを与えるのだったら、ほとんど与えなくて済む。反対。お手伝いさせる方が必要なこと。
親が子供の代わりにしたらダメ。親のお手伝いをさせるのが子供に必要なこと。内職して家計の足しにしてって頼まないといけない。
反対に、本当は、小遣いをあげたらダメ。内職して家計の助けをした子は、親孝行になる。小遣いをもらった子は、親不幸になる。
貰いすぎたらダメ。みんな我の心は反対のことをするからよくない。


(平成25年8月31日のお話 第2部F)