真のありがとうございます 

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 本当の神さまの愛の働きというのは、みんなを幸せにして、その幸せを自分の幸せにする。与えて、幸せを自分のものにする。
受けて幸せになるというのは、小さすぎてダメ。全ての全てに最高の幸せを与え続けて初めて、その全ての幸せを自分のものにするから、
大きい無条件の幸せになっていくわけ。だから、無条件の幸せでないと本物ではない。
だから、虚の世界の過去を掴む残像の生き方では、全然比較にならない。いくら虚の世界が幸せと言っても、本当に儚い、空しい、無。
真ではない。真実ではない。だから、我を消して、全ての我を消し切って、本心の自分に戻ること、本当の悟りを開くこと。
全ての我を消し切らないと。悟りの花を開かすと言うのでも、悟りも段階があるから。花開くのは、中から開く。
無理やり外から開くわけにはいかない。花開くのは、中から自然に開く。

だから、もう与え続けて、中から開いてもらう生き方じゃないと、本当の悟りは開けない。みんな中からの自然な力。
でも、本心の自分は、それを先に全部知っている。知っているから元に戻ろうとするだけ。一瞬忘れたふりをしているかもしれないけど。
一瞬錯覚して、知らないと嘘ぶる。錯覚しているかもしれないけど、でも全部知っている。
真の自分とは何か、真の幸せとは何かって、みんなわかっている。だから、本当の悟りを開こうとする。神さまと一体化しようとする。

真祈りを祈るのをやめなさいと言われても、絶対やめないはず。頑固になる。本当のことがわかったら、誰が何言おうが頑固一徹。
さざれ石が巌となって頑固一徹。神さまが何を言おうと関係ないって。私は真祈りを祈り続けるって。
神さまがどんなお芝居をして、お祈りの邪魔をしようとしてきて、本物かどうかを確かめてきても、そんなことに負けない。

n本当の真祈りを本当に本物に変えようと思ったら、色んなマイナスの姿をとって、邪魔してこないと、
自分の自由意思で真剣に祈るまでいかない。どうしても甘くなる。どんな試しにあっても、真祈りを祈り続けるというところまでいかないと。
それが本当に身に付いたら、真祈りというのは、循環する祈り。循環する祈りは、本当に湧き上がる祈り。
湧き上がる祈りで、途切れない。連続した祈り。絶対、もう祈り続ける。必ずそこまでいく。祈らないと、ではない。
もう祈り続けるしかない。連続して湧き上がってくるから、どうしようもない。でも、本当はみんなそう。
無条件の幸せって、そういう幸せ。もう湧き上がって、湧き上がって、もうどうしようもない幸せ。

だから、与えっぱなしになる。与え続けて、与えっぱなしで、幸せでも喜びでも安らぎでも何でもそう。
全てを与えっぱなす、与え続ける。真の神さまが本当に湧き上がるように感じたらそう。真の神さまを与え続けるしか方法はない。
自分がパンクする。自分の中で止めただけで苦しい。笑いが込みあげた時に、止めてごらん。笑うの止めたら死んでしまう。
その時は、笑い転げないと、どうしようもない。本当の真祈りは、そういう風に、本当に湧き上がるお祈り。
だから、祈らずにはおれない。だから、真の神さまは、与えっぱなす。与え続ける。与えるだけがお祈り。その最短コース。
難しいことではない。祈り続けたらいいだけ。ありがとうございますを唱え続けたらいいだけ。単純。
少し循環を助けるようなすがたをとったらいいだけ。循環を加速する生き方をちょっと選んだらいいだけ。

加速すると言っても、ほんのちょっと加速しようとするだけ。元から無限のスピードで循環している中へ入るだけ。
自分が加速してどうのこうのではない。加速しようとするだけで、無限のスピードで循環させてもらう。
そしたら、もう祈らずにはおられない自分に変わってしまう。自然にすっと変えてもらう。だから、選ぶだけ。
与え続ける心で祈り続ける。この生き方を選ぶだけ。虚の世界は、何かするのが目的ではない。何かしたら、我が付く。
我を消すだけ。だから、消すだけというのは、祈り続ける、支え続けるという生き方。
祈ること、支えることは、必要なものを的確に与え尽くす生き方の真似事。一大循環の相象(すがた)の真似事をるだけ。
必要なだけをするのも、余計なことをしたら、我を積む。マイナスを積み重ねて、借金一杯にする。必要なだけいうのが、1
番大事。


(平成25年8月31日のお話 第2部A)