真のありがとうございます 

新・勉強会のお話」に戻る

 昔からのたとえで、3本の矢というのがある。1本だったら折れるけど、3本だったら折れない。
だから、3人で力を合わしたら、大きい力を発揮するとか、たとえで教えている。でも本当の支え合いは、その程度ではない。

本当の支え合いは、真の神さまの力がそこに降りるのだから、無限倍の力になる。
本当は仕事でもそう。支え合いの仕事はスピード化する。無駄なことを全部やめて、みんなが力を合わせたら、
少なくとも、最低十倍速にすぐなるはず。無駄なことをやめる。我は無駄なことをする。
でも、無駄なことを一切やめて、必要なことだけしたら、それも支え合いでしたら、常に十倍速以上になる。どんな仕事も速くなるのが当り前。

スピード化をしようとするのと違う。支え合いをしようというのが、スピード化の目的。支え合いをしたらスピード化する。
速くしようというのは、まだ我がある。我の心で速くしようと言ってもダメ。色んな無駄なことを一杯したりして、スピード化しない。
支え合いの中に、スピード化の原動力がある。

一日に十個の仕事があるとする。十人がいて、十個の仕事を分担してしたら、我を積むだけ。
みんな我を積み重ねるだけ。我は絶対に消えない。でも、一から十までの一番大事なこと、まず一つをみんなが協力してさっと終わらせる。
終わったら二番目をみんなでさっと終わらせる。最後までさっと終わったら、スピード化も速い。
多分バラバラにしているよりも全部早く終わると思う。それでみんなの我が消えて、本心が出る。
目的が、我を消して本心を出すのだったら、一番から順番にみんなでしないと損。ばらばらにしていたらダメ、支え合いがないから。
まず、神さまの助けが降りない。私は掃除だけをしているなんて、やってもダメ。
そこに神さまが降りなかったら、我が消えない。どんなことしてもダメ。掃除が必要だったら、何番目かに出る。
9番目か10番目に掃除が必要となったら、みんなでさっとしたら、心の大掃除が全部終わる。どんなこともそう。
一番必要なことから片っ端から片づけてしまえばいいだけ。

支え合いの場がたくさん出来るほどいい。我の虚の世界はみんな、自分が我を出して、自分一人で仕事をする。人を入れない。
だから、我が強くなるばっかり。ますます人と協調できない。人と一緒に出来ないようになってしまう。我が強くなってしまうから。
だから、みんな孤立する。そんな生き方をとったら損。

日本は、昔から我のない民族と言われていた。我のない民族って、自分を主張しない。自分がって言わない。私が、私がって言わない。
自分を全部消している。子供が学校に行ってきますって、私が行ってきますとは言わない。行ってきますと言う。
どんな場合も私がって出さない。我を出さない。

日本民族は、大家族主義で、みんなが一つのことを支え合ってしたから。野良仕事、田んぼ、稲刈りは、赤ん坊まで全部総動員。
全部出て、みんなでする。支え合いがあるから、そこに神さまが助けに応援に降りている。
真の神さまが直接ではないけど、高い神さまが一杯応援について助けている。色んな虚の神さまもそう。
だから、みんなが我を消してもらう。本心の心が出やすくしてもらうから、また助け合い、支え合いが出来る心に変えてくる。
我を消すために、全てそういう風に仕組まれていた。

一つの村でもそう。何かあったら、みんな総出でやる。もし、何か草刈りが必要だったら、みんな総出でする。
全てがそういう風になっていたら、支え合いになって、助けを大きく受けていた。これが日本民族のよさ。
これが逆に核家族になって、自分さえよかったら、という気持ちになって、働く人が増えた。
だから、我が強くなって、本心がひっこんでしまって、マイナスになってしまった。

もう一回、大家族主義にならないとダメ。血のつながりの家族ではない。みんなが仲良く助け合う、大家族主義になったら、
今でも気心の合う人が自分一軒の家を持たないで、アパート一つ持ってみんなで支え合ったら、共同のお風呂に入って、
共同のトイレを使って、みんなで助け合ってごらん。お金もほとんどかからなくなる。大事な時に助け合える。
みんなが仲良くなって、本当の神さまの兄弟になる。神さまが親で、みんなが兄弟という感覚になる。
みんなが本当の兄弟、命の兄弟。本当の助け合える、支える人が、大勢が一つの集団を作る方が本当は理想。

そしたら、山でも守れる。畑も守れる。田んぼも、孤立しているから、後を継ぐ人がいないから、休耕田が出来て、
ほったらかしにしてしまうというのが一杯出てくる。みんなが支え合ったら、田んぼも畑もちゃんと、大事に守って、
外国から食糧なんか輸入しなくてもいい。日本でちゃんと豊かに必要以上のものを作れる。支え合いが目的になってこないと。

お風呂に入る時も支え合って入るの。1分間でツバメの行水。水の中にぱっと入って、お尻をさっとつけるだけ。
戦争中は、兵隊さんはみんなそう。僅かな時間で、みんな水浴びをしなくてはならなかった。
これも支え合いだから、みんなが同じように水浴びできるようにと言ったら、一分間。一人一分間。一分間だけ。
服なんか着たままで、水浴びしてきれいに体を洗う。脱いでいる暇がない。脱いで着る暇がないから、服を着たままで体を洗う。
だから、本当はみんなできるようになっていないと嘘。必要だったら、一分間で入れるという、そういう能力が絶対必要。
余裕がある時は、5分間。もう少し余裕が出来たら10分間になるかもしれないけど、でも、お風呂を待っている人を作るようだったらダメ。
自分が邪魔をしている。自分の後にお風呂に入る人がいるのに、自分が長湯していたら馬鹿。
人の時間を奪ったことになるし、絶対、お風呂を待っている人を待たせたらダメ。5分間くらいだったら待ってくれてもいい。
まず5分間で入るくらいの気持ちで、お風呂に入らないと、人の時間を奪う。それもスピード化する練習をしたら、服を脱ぐのも速くなる。
服を着るのも速くなる。お湯に浸かる時間も増えてくる。最初は1分間浸かれないかもしれないけど、2分間3分間、浸かってゆっくりできる。
体を洗うのでもさっと洗わないと。これは練習次第。やっぱり訓練しておかないと。これも必要な能力。

禅宗のお坊さんはみんな、湯船に浸からない。湯桶に2杯もらう。2杯で体をキレイに洗って、お風呂の中に入ったら湯を汚すから、絶対しない。
みんなのためにと思ったらそう。そのぐらいの気持ちでお風呂に入るのだったら、お湯1杯でも2杯でもありがたいと思う。
だから、贅沢に慣れすぎたら、その気持ちを全部忘れるから、そこが怖い。まず自分のことを考えないのがいい。
全体のために、みんなのためにというのだったら、みんなをお風呂に入らせようと思ったらどうなるか?
人数が多かったら、短い時間で入らないといけないとなったら、まず自分の時間を削る。
お湯も少なかったら、コップに一杯のお湯とか。お湯にタオルを濡らして体を拭くくらい。お水よりお湯の方がありがたい。
その辺が自由自在にできるようになったらいい。いつもそうしないとだめというのではなく、みんなから与えてもらうのはいい。
でも自分から求めて贅沢するのは間違い。


(平成25年8月24日のお話 第2部B)